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Kenny

読むこと、書くことが好きな人

読むこと、書くことが好きな人

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コメントした本

砂漠ダンス

向かいの席にすわるヨーロピアン男性が口元に運ぶ、そのサンドウィッチにはさまれたレタスとして、わたしが彼にたべられる瞬間を想像する。Caucasianらしい頑丈なアゴにはさまれるわたしは、そのかまれる衝撃すら、小学校6年生のときに学校のジャングルジムから転げ落ちて腕を折った衝撃を導入しておぎなってしまう。あるいは高校3年の夏にみた、大きなトラックがせまり、左腕を顔の前に差し出す、その恐怖をも導入する。Starbucksで、サンドウィッチとして咀嚼されることを、いっしゅ経験したような気持ちになれるのだから、なんとも優雅だ。 思い出も、夢も、経験も、そして妄想も、今という交差点、るつぼのなかで混ざり合い、ときには加工されて、わたしの前に提出される。まさにそれが「いま」であって、いまは過去や未来に従属するものではない。いま、しかないんです。 山下澄人『砂漠ダンス』。『緑のさる』よりもあとで、『しんせかい』の前に書かれた作品。『しんせかい』がまともにみえるほど、『緑のさる』『砂漠ダンス』は、くるっている。でも、その狂いは、おもに、「わたしがあなたで、わたしは世界です」というようなことなんだけど、この生きているということが、尊いとおもえるような、ふしぎな心地にさせてくれる。『砂漠ダンス』はもっと、大胆に時間軸と空間軸をいじっているけど、その文跡はかわらない。 わたしはわたしをみている、というとき、わたしはわたしではなくて、むしろ世界の視点にちかい。わたしが生き死にするとき、わたしでないひとが生き死にするときを経験する、あるいは想像できたとき、もっと優しくなれると思う。

約2か月前

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しんせかい

生まれた家の、生まれた庭のいっちばんおおきな樹の下に、真っ赤なオウムのなきがらを埋めたことはないのに、埋めたときの左指が土に触れた記憶がある。母は君があたしの腹のなかで逆さになっていたときだよというけど、ぼくはそれをみて、この頭にとどめている。そこにあるのは懐かしさではなくて、それとしか言いようのない、残像だ。 山下澄人『しんせかい』はまさに残像の小説だと思う。「ぼく」はみている、聴いている、触れている。美化された記憶を語っているのではない。かといって客観的な記録でもない。そもそも、みている「ぼく」が不確かな語りをなし、ぼんやりとしたリアルの複数性を示唆する。 この小説は「あ行」でも「さ行」でもなく「は行」でできていると思う。句読点の使い方もうまい。冒頭の乱れ、交わる記憶も。そして、視点がとんでとんで、いつのまにか遠いところにいっているのも。ああ、うらやましい。

2か月前

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ヘヴン

裸になって、頬を撫でるという行為そのものが、生きている世界の意味(=意義)をめぐり異なる解釈を認めたときの不自然だけど、ナチュラルな(=当然な)アクションだと思う。犯されるわけでもなく、逃げるわけでもなく、ただブレザーを脱いで汚れた手を頬にあて撫でる行為には、優しさというより、強い酸素みたいな「凶暴さ」がある。 世界に意味があるという立場(コジマ)と世界に意味はないという立場(百瀬であり、実は母親や病院の先生も)のあいだで揺れる「僕」は決して最終的に恋したコジマ側につくわけではない。むしろその逆で、「僕」は百瀬や母親、病院の先生側の、どちらかというと世の中に積極的な意味を求めていない側に流れる。それがこの『ヘヴン』という小説が青春小説とは甚だ呼べない代物である所以だ。世界は解釈でしかないと悟った先のどうしようもなさを描いた作品という点で『わたくし率』『乳と卵』と似ていて、すごく尊い。 川上未映子はキャメラ的、シーン的な作家だと思っていて、シチュエーションを描くのがとてもうまい。コジマが公園で脱ぐシーンは別格だけど、髪の毛を切らせるシーンもとても良かった。僕たちは綿矢りさを知ってるから、髪の毛を切る、切られるという行為が「性衝動」なのだとわかる。

2か月前

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寝ても覚めても

ときどき、死ぬこと以外は「経験」できるのではないかと思う。ぼくたち、わたしたちは意外と、鳥や飛行機や車など、なんであれ、見ているその私を見返している生き物やモノ、すなわち世界の〈まなざし〉になって見ることができる。きっとぼくらが世界をまなざすから、世界はこちらをまなざすのだろう。 柴崎友香を「目の文体」といったのは言い当て妙で、彼女は作品の中で、視覚を使って世界との距離を測っている。作中の主人公は必ずしもほかの機能が突出しているわけではないが、視覚によって世界を「異化」させる。見えてないものが見えて初めて、文学になる。 見ているものを異化し、表現するのは必要条件だろうが、十分条件というわけではない。「目の文体」と言わせるのはきっと、「視点を投げる」ことができるからだ。目は飛行機、鳥のものになる。「全部を見た」という表現はひょっとしたら神的な視点ですらあって、彼女は神にもなってさえするのかもしれない。 『寝ても覚めても』の不穏な雰囲気は信用できない語り手としての「わたし」に依るところが大きい。それを支えるのがふたつあって、ひとつは語りが出来事に左右されない点、つまり「今から重要な出来事がありますよ!読者の皆さん!」アピールがない。 もうひとつは、彼女の文体で特徴的な「ーした」「ーだった」などの過去形が連続して、なんというのだろう、「下手さ」なんだけれど、語り手の仕様がなさにつながっている点だ。下手上手いみたいな。 一人称小説でしかありえない、不穏さをこの作品は持ち合わせている。

4か月前

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乳と卵

なんでそうなったのか今でもわからないし、本人たちですら覚えてないのだけど、母は殺してやると叫びながら業務用のケチャップを父の禿げた頭頂部に、どゔぁどゔぁとかけ、父はそのケチャップを丁寧に手で拾い、母の顔に塗りつける。罵り合いながら、なぜか途中から笑い出して、風呂にでも入ろうかなぞという、その光景は当時の姉とぼくには理解不能だった。 その光景は、父のケチャップTシャツが大掃除のたびに細かい溝を拭く切れ端になって登場するたびに思い出すのだけど、そのケチャップ事件は、何も解決できない、問題なんてひとつも解決できない状況だから、生じたカタルシスなのだと、『乳と卵』を読んでいて、やっとわかったつもりになっている。 小説は言葉でできている。けども、言葉で考えられた小説か、そうではないかという点は大きく作風に影響する気がする。 ウィットなどの言葉遊びは言葉で考えるときに生じるもので、村上春樹や高橋源一郎の作品はそれによって、イマジネーションを得ている気がする。 一方で、小説がとてもキャメラ的、シーン的、ひょっとしたらアクション的なものもあって、むしろ手や足や口が言葉に先立ってある。 『乳と卵』は個人的にキャメラ的だと踏んでいる。振り上げた腐乱した卵を自分の頭に叩きつける、やさしさ。床の卵を自らお迎えにいって、頭を叩きつける、おかしさ。 優しくて、滑稽で、狂おしい、にんげんさま。川上未映子はシーンを思いついてから書く作家なのではないかと、勝手に親近感さえ覚えている。

4か月前

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仮面の告白

人間は独りで生きていけるーー。と、思わせるほど、心理的ベクトルがうちに向かって、昂進する。 戦争は内的ロジックの華美のためのみに使われ、時折、言及されるかと思うと、すぐさま後景に退く。主旋律は「性」にあり、「性」の類義語が「偽」だと気づく。 決して露出狂的な性ではない。内に向かい、拗れ、捻れ、行き場を失ってしまった先にあるのが偽りであるということ。その「偽」は過去の記憶であり、冒頭の「生まれたときの光景」の記憶という偽史を信じる彼には当然のことかもしれない。 P.S. 「産湯を使わされた盥のふちのところ」という表現ほど、キャメラ的な一文はないと思う。

5か月前

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砂の女

祖母がよく庭で育てた春菊を摘んで、おひたしにしてくれた。田舎の田舎の娘が作った小鉢だ。根元を水でさらっと流した程度の鮮やかな緑には細やかな岩石が混じっている。 あの音。右の奥歯にあってはいけないものを噛み砕こうとしたときの音。ガァリ、ガァリーー。決してあの小ささから想像できないほどの存在感を発揮する。あの無機的な存在は決して私のうぶで柔らかい有機的な身体とは相容れないと思わせてくれるには十分だった。 10年ぶりに手にとった『砂の女』は携える風貌を変えていた。かつて、やたらと逃げることのできない絶望感に気を取られていたが、むしろ今は逃げることそのものの、いきいきとした喜びしか、脳の襞に絡めとられない。 「逃げるな」は「逃げろ」に、「逃げろ」は「逃げるな」に内的に変換される世界。それは常に私たちが無意識的に行なっていることだとはゆめゆめ気づかない。 縄梯子を登りきったときの納得感。私は残るべきなのだと感じさせた濾過装置という《希望》はベクトルを反転させ、砂の世界へと向けられる。 砂という無機質な世界において初めて、私として必要とされ、生実感を感じ、有機的な人生を営めるという期待が彼を砂の世界に引き留めるのだ。

5か月前

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ニムロッド

混沌としたテキストは、心地が良い。 時折、作者の執着とか「こう読ませたい」という意図が過剰な説明として表出すると、一気に興ざめてしまう。この感覚は、中学校の国語の授業に似ている。考えさせる授業のようで、実は「読み」に正解がある世界。答えがある世界を知ってしまったあの窮屈さを、それがわからない隣のまりえちゃんには伝えることができない悲しさが拍車をかける。 『ニムロッド』は墓標の前で一人佇む父親のように優しくて少し哀しげな小説だ。押し付けられる教訓も意味も持たない。あるのは語りだけだ。それ以上でも以下でもない。 語りの内実に一貫性はないように思われる。けれども何かリリカルな、物悲しげな気配は常にそこにある。それはおそらく、いや、明らかに田久保とニムロッド側の世界と、「僕」の世界が異なっていて、その断絶が埋まり得ないからだろう。 そして、上田岳弘特有の「人類」「過去」「未来」との親和性が、「種」としての人間の叙情性を生み出しているように思われる。

5か月前

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鳥打ちも夜更けには

爆発的な一文というのがあると思う。それは、吉田拓郎の「私は今日まで生きてみました」だろうし、ひょっとしたら漱石の「吾輩は…」かもしれない。 悪名高い冒頭の一文は、想像をかき立て、下流の住民への避難指示がままならないほどのペースで、言葉の横溢が起きる。 『鳥打ち…』の冒頭、「沖山が架空の港町で鳥打ち…」という一文にこれほど惹かれるのはなぜか。フィクションの中のフィクションというマトリョーシカ状態。一種、恍惚としてしまったのは僕だけか。 実は後で固有名詞だと判明するが、この「架空の」という形容詞の射程は計り知れず、冒頭から最後のページに至るまで作用しているように思われる。

5か月前

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緑のさる

その女の子とは、今もよく会うんだけど、大学の1年生の夏にフラれたこともあって、でもそのフラれる前の前の日くらいに、大学の寮の裏手にある駐車場のところで、せなかをがっちゃんこして歩いたのは、夢かもうそうかリアルかわからない。ぼくはその娘と付き合いたかったからぼくはぼくを彼女の目で何回もみたから、ぼくはその女の子でもある。 視点が移るということは、その娘の目にも、その娘をみている星の目にも、その星をみている世界の目にもなれるということで、その目は過去にもむかえば、未来にもむかう。ぼくは、わたしは、彼も彼女も生きていて、死んでいて、世界の目としてみると、この、ここに、存在してくれてありがとうってなるのは、すげぇ。 山下澄人『緑のさる』は、すごくなんというか、つながっているっていうこと、それはモラルとか共同体とかかんけいなく、つながれ!ではなくて、正味、つながっているんだよ、と教えてくれて、ぼくはとなりでいつもラップトップをがちゃがちゃ叫ばせる嫌われものにもやさしくなれた。そして、好きな女の子に対しても、なおさらで、次に会ったときに、会った瞬間、泣いてしまったらどうしよう。そんなことを考えている。

2か月前

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道化師の蝶 (講談社文庫)

わたしというよりも、「口」にお喋りの主導権を渡してしまい、なんだか御されておるぞ、考えてないことがぽかぽかでてきおる、というような状況はだれしも経験したことがあるのではないか。このとき初めて、自分の中に他者を認識するような、へんな心地がするのかと思う。 書くも話すという行為の親戚みたいなもので、文字によって、ひらがな、カタカタ、漢字、アルファベットを、どう開くかが想起するイメージを変えていく。「手が書いておる」という感覚そのものが、実は人間がことばであふれている証だと思う。 円城塔『道化師の蝶』は、物語というか、文字に操られてたどり着いた種々の痕跡をみせられているかのような小説だ。『オブ・ザ・ベースボール』においても言葉に操られている雰囲気があったが、まだまだわたしごころというか、私性や物語性もあった。今回の『道化師の蝶』はそのことばたちが蠢きあい、なにか新種の生き物のように、そこにいる。 物語が全くといっていいほど残らないのは物語性が乏しいからというよりむしろ、この小説そのものが物語そのものではなく、物語の書き方にまつわる、ひいては書くことにまつわる小説だからだと、確信している。 「架空の蝶」をめぐる想起、「友幸友幸」という名付けるという行為を無に帰すような主人公の名前、「無活用ラテン語」が示す言葉の偶然性ーー。言葉への興味が円城塔という作家の根源的なモチベーションなのだと、確信に至らせた小説だった。

2か月前

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オブ・ザ・ベースボール

物事には理由があるというのはぼくの上司の口癖で、事あるごとにほら見たことかという調子でペン回ししながらしたり顔になるわけだけど(したり顔というのはほんとうに、したり、という音がする)、理由というか、物理的な説明に支えられた必然性なんてないんじゃないか、と未だにオフィス机の引き出しに潜んだビスコの少年の顔を思い出しながら考えている。 ユニフォームを着てバットを持っているから白球を打つ必然性は、物理的には説明できず、それはどこともしれない宇宙から落ちてくる人間を打ち返すことだって構わないじゃないか。そうであるからそうなんです、としか言えない自己循環論法。それで人間は人間らしくやっと振る舞える。 円城塔『オブ・ザ・ベースボール』は、意味がないのに、いや、意味がないからいっしょうけんめいに生きるひとが描かれている作品で、彼が物理的な素養を駆使すれば駆使するほど、その差異ははっきりしてくる。 読みながら、彼は、言葉に操られた経験を持っていて、それを自覚している作家なのかなと思った。それはきっと『文字渦』にもつながっているみたい。まだ読んでないけれど。

4か月前

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わたくし率 イン 歯ー、または世界

実は世の中のテーマとか問題とかなんてものはすでに出尽くしている可能性があって、ひょっとしたら、「何を」語るかよりも「どう」語るかという方か重要なのかもしれない。 デカルトが、ニーチェが、サルトルが、というように知識人アイコンを参照する言論自体が擦り切れてしまっていて、だから、多くの作家は「古いけど、新しい」かたちで、メタフィジカルに語ってみたり、サブカル風に叙してみたりするのだろう。 川上未映子の『わたくし率イン歯ーまたは世界』も、まったくその、「古いけど、新しい」かたちで「私」について語る。 「奥歯」で考えるとか、失恋して歯を抜くとかそういう仕掛け以上に、川上がいたるところでみせる「ずれ」が魅力的で仕方なかった。 ひとつは視点のずれであって、みているのにみえてないものを言葉にしたときのなんと強いことか。ああ、感覚としてすごくわかる。もうひとつは、文体のずれで、句読点の使い方などはずれすぎ。さらに終わりかたも今流行りの終わり感のない終わり方。 精巧に仕掛けられた乱れのなかで私について考えてしまう。そんな作品か。

4か月前

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第160回芥川賞受賞 1R1分34秒

町屋良平の短く、ハイジーンな文体が相まって、意識が積分されていく。意識の素子があるなんて、知らなかった。伝えたいことより、書きたいことを見出してあげたいと思う作家は少ない気がするけど、解釈が作家を侵してるご時世に、町屋良平という作家は尊い。そう感じた。 「ぼく」は自重でやられるタイプ。可哀想かな、理性を、悟性を、生み出したときから主従が逆転し、果ては動物的な本能を飼い慣らすまでになってしまった。でも、そういうひとが僕は好きだし、そういう不器用で臆病なひとでありたいとすら思う。 この小説が「関係性」についての話だと、僕は町屋良平の言葉ひとつひとつから、それもいやいやながら、意味付けした。「人間(じんかん)」にいるものとして、その関係性がいびつで敵を親友とする「誤爆」が起こる。 でも「ぼく」は全く変人なんかじゃない。なんだかんだ、みんな実はとてもいびつな関係の中で生きているということを示している、もとい、思い出させてくれる。 キューバ危機でケネディがフルシチョフの寝顔を想像するように、桑名の息子が「95%兄弟ではない!という結果でした、、でもこれで終わりと思うとさみしい」とかツイートするように。そんないびつな関係に横たわる愛憎憎しを描いてくれた作品で、作家同様、この作品も尊いと思う。

5か月前

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痴人の愛

育てる、育て尽くして、恐ろしい存在を育ててしまったことに気づく。自分が飲み込まれてしまうとわかりつつ、御すことができない喜びに抗いきれなくなる。 性的な雰囲気、エロティックなムードが漂ってはいるが、何か潔いエロさであって、秘匿、覗き、隠すといういやらしさはあまりない。 あるのはどこまでもマゾヒスティックで、痴的な主旋律。その男は痴人として登場するが、あらゆる男の代表として退出する。ナオミは男のそれを引き出すトリガーでしかないのかもしれない。

5か月前

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平成くん、さようなら

ファディッシュさを頻りにすくうことでみえてくる全体像がある。そこにあるのは個別具体的な個人というよりも、世代や時代のコホート的な抽象的存在。高橋源一郎が田中康夫『なんとなく、クリスタル』を80年代で最も優れた小説と言い張る点はそこにある。と同時に、文壇から総スカンをくらったのもその点にある。 『平成くん、さようなら』はそのファディッシュさから田中康夫的と言われうる可能性があるが、むしろその逆だ。『平成くん』の主題は近代文学が長年取り組んできた「死」の悩みであり、プレ田中康夫的、非コホート的と言い換えてもいい。 そして最も興味深いのが、たとえどんなにドリスヴァンノッテンのシャツを身に纏っていたとしても、「平成くん」が「昭和的だ」ということだ。日本という国に限られた元号という独特な制度に拘束された人間の苦悩を描いている点において、一昔前の昭和的な気配さえしてくる。 それは古市の意図が成功していないということを意味しない。実は平成が昭和の総決算、ロスタイムでしかなかったことを示唆しているように思える。「時代を背負った人間」と自己認識する「平成くん」の昭和らしさを垣間見たときに初めて平成という時代の「らしさ」が浮き上がってくるように思える。

5か月前

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金閣寺

世界は想像だにせずほど、至極、単純。モノとコトがある。以上。ダン。 世界の複雑さは決してそこにあるのではなくて、むしろこちら側にある。というか人間がその世界の一部であるがゆえに厄介。 金閣寺の「私」は拗らせてきた人間の典型だ、などと考えると見誤る。多かれ少なかれみな拗らせてきた、ぼくたちわたしたち。AというとBになり、コーヒーといえばお抹茶になる。美しさは醜さで、潔さはスティッキーな女々しさだ。決してヒューマンビーイングではなく、「人」としか言いようがない存在。群像がややこしいのではない。人は群れなくてもややこしい。 最後のタバコをふかすシーンはなんて素晴らしいんだろう。金閣を燃やして得たものは、罪悪でも、自暴自棄でもなく、純粋な世界に対しての自信だった。

5か月前

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双子は驢馬に跨がって

人間はそもそも、なにかを名付けることで初めて認識する。それは「羊」であり、「ロウソク」であり、「クリスティアーノロナウド」である。 けれど、それ(あるいは彼・彼女)であると名付けられる必然性はなく、「羊」は「牛」でもいいし、「ロナウド」は「王貞治」でもいい。王貞治はプレミアリーグでハットトリックを決められるのだ。 金子薫の『双子…』の冒頭は、父を「君子危うきに…」、息子を「君子」とするところから始まる。彼らの存在は個として危ういのみならず、父子としての関係においてもフラジャイルだ。 この存在の危うさはこの小説を貫く1つのリズムとして存在し、その脆弱に支えられたリズムが勝手気ままな双子を一種、「踊らせている」気すらしてくる。 そしてこの危うさを感じてしまった、その瞬間、父子と双子が出会うなどというエンディングは期待し得ない可能性としてあると気づくだろう。

5か月前