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HSSISOLATED

人生で何度目かの読書熱

人生で何度目かの読書熱。 読書から遠ざかっていた日々を取り戻すかのように読み耽っています。

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コメントした本

すべて真夜中の恋人たち

アディクション。 読み始めは不器用で生きるのが少し下手な主人公の物語だった。 どこか疎外感を感じ、なぜか周りの人と比べて自分は普通ではないかもしれない、選択をするのが怖いと感じている。 校閲の仕事は物語を読まず、自分の言葉も持たず、ただ間違いを修正していく。 この物語の主人公は自分の言葉をもたいない女性である。 だからこそ彼女は言葉が出にくい友達、典子を、高校の頃に得たのかもしれない。 『「きっとね、わたしの声帯はたぶん奇形なんだよ」』(p.168) やがて、様相が一変する。飲めなかったはずの酒をキッチンで、日本酒を水筒に入れ、怖くなるとそれを煽るようになる。 症状に、主人公についていけない。 思えば、アルコール依存による幻覚体験が文字に浮かぶという事で現れていたのかもしれない。 そのうちに、ある男性との出会いによって症状はいつの間にか消失する。 劇的な物語ではなく、どこか静かな空気が流れる物語である。 静かな中で、ゆっくりと自分の選択をする。あくまでも、ゆっくりと自分のペースである。 そしてようやく自分の言葉が出される。 『わたしはひとつひとつの音をたしかめるようにして言った。まるで自分に言いきかせるような言い方だった。』(p.337) 最後のページで、自分の言葉がしっかりと刻まれた。 この作家の物語は一番最後のページでいつもぷるぷる震えてしまう。 しかし、『乳と卵』(或いは『夏物語』)でも感じたが、ブロン依存や愛着傷害、緘黙とかこの作者は精神医学か児童発達心理学に知見があるのだろうか。 それとも川上未映子さん自身の実存としての問いやエネルギーが作品に反映されているのだろうか。

約1か月前

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宵山万華鏡

祭りという白昼夢の体験。 日本の祭りは変死意識状態へ誘う作用があるように思える。 日常空間である路地が祭り、或いは縁日と呼ばれる時、通りに屋台が並び、食べ物の匂いが立ち込め、囃子が聞こえ、普段の焦燥感に満ちた人たちは消え、雑踏はゆったりと金魚のように回遊する。 日常の世界がいつもと違って見える体験は、通常の知覚とは異なる知覚を生成するという意味において変性意識状態であり、或いはこれを白昼夢とも呼べるかもしれない。 この物語体験は、祭りにおいて体験する不思議な体験をなぞることができる。 しかしなぜ、日本の地域が祭りに関心を示さなくなったのかを考えると、単純に人がいなくなったから、ダサいからという理由だけではないだろう。 あまりにも普段の日常から現実感が損なわれたからではないかと思う事もある。 この物語で稀薄な現実感からさらに現実感を喪失させる体験ができた。 これは活字の読書でなければ味わえない体験だったと思う。

約1か月前

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書店主フィクリーのものがたり

素敵な物語。 古き良き「北米文学」 紙の本で、しかも文芸作品を読むという行為が既にノスタルジックになりつつある中でこの物語は古き良き北米(アメリカとは言ってない)文学体験を思い出させてくれる。 ポール・オースター、カポーティ、メルヴィル、フォークナー、ヘミングウェイ、ルーシー・モンゴメリ・・ 本を読むのが大好きだったし、書店が好きだったし、古本屋も好きだった。 しかしいつからか読書から遠ざかり、お気に入りの書店は縮小され、或いは閉店し、気付けば電子書籍リーダーやらスマホやらで活字中毒の禁断症状を癒した事もあった。 『いまやチェーンの大型書店もいたるところで姿を消しつつある。彼の見方では、チェーンの大型書店のある世界よりもっと悪いのは、チェーンの大型書店がまったくない世界だ。』(p.287) この物語は孤独、ひとりぼっちだった主人公たちが読書を通じて、書店を通じて、繋がりを得てゆく物語である。 このプロセスはまるでモンゴメリの『赤毛のアン』よりもむしろ『可愛いエミリー』を読んだ時の体験に似ていたかもしれない。 しかし、やがてAmazonや「電子書籍リーダー」の登場と加齢が迫ってくる。 現代は、活字を、言葉を失いつつあるのだろうか。 むしろ、我々はもう既に十分過ぎるほど言葉を失い、文芸を読むという行為を失い、豊かな感情体験をする機会を失い、共感する心もなくなりかけているのだろうか。 読書は元来孤独な行為だったが、読書をする人はより一層孤独になってゆくのではないか。 このようにも感じる事もある。 そこで、『ぼくたちはひとりぼっちではないことを知るために読むんだ。ぼくたちはひとりぼっちだから読むんだ。ぼくたちは読む、そしてぼくたちはひとりぼっちではない。』(p.327)というフィクリーの言葉が刺さる。 そして、各表題代わりの短編の名前とフィクリーの名で書かれた読書リストが、最後の最後に活きてくる。 この素晴らしくノスタルジックで素敵な物語体験は本が好きでよかった、としみじみと感じさせてくれる。 古き良き北米文学だった。

約2か月前

Icon user placeholderDc102423 4b2c 43e4 8a86 bfa9145bd0bd8bf48a7d 6668 4efb b339 79b3b7b29d0508634c99 3a43 40c1 9ad5 6ba772150f2cCb292262 5d04 49b0 a83b 2c35d1bc843bIcon user placeholderA516b2b3 30cc 4f7a ba08 137aa25c3ea5 32
風に舞いあがるビニールシート

出会いをめぐる短編集。 この出会いは素敵な人との出会いだったり、或いは自己の再発見(=出会い)だったりもする。 短い物語はどうにも寂しいような、物足りない気がしてあまり短編集を好んで読むことはなかったけれど、どれも素敵な物語だった。 物語が短いと書き残すことも短く済んで良いのか、物足りないような・・ その他 p.301『難解で重苦しい現実は見て見ぬふりをされる、それもこの世界の機能の一部ではないか。』

約2か月前

52c763f7 7434 4184 8bd5 b00a8c1684a500a20a97 3d99 4e03 bc71 2639f8f8bd10A209443d 9caa 4ef1 a492 e750cfcdc656C1737d6c 78a8 4535 967a 3fd927417b76Icon user placeholder38aecb1e ab6d 44a9 8407 9f126a093a212f7d9080 c35b 4b8e a300 64c7f2c54b90 72
夏物語

女性性の物語。 どのように生きるかを真剣に、まっすぐ考えさせる。 貧困の世代間連鎖、孤独感、死と出産。 『乳と卵』に重厚さが増し、再び厭な予感、救いのない円環をぐるぐる回っているような感覚に陥る。 『乳と卵』で感じた女性特有の血の匂いは少しだけ鳴りを潜め、代わりに時間の経過や「老い」が重くのしかかる。 貧困地域に住んでいた親世代の人たちは体も衰え、もともとなかった余裕が損なわれてゆく。 そして、そんな親世代に囲まれ、孤独に生まれて生きてきた彼女たちは将来誰かを愛せるのだろうか、と重たい気分になる。 P.190『「たとえば、言葉って、通じますよね。でも、話しが通じることってじつはなかなかないんです。』 案の定、主人公夏子は「本当に」誰かを愛するという事が難しくなっている。それは、性的なものと愛するということがどう頑張っても結びつかず、アセクシュアル的な傾向をもつ。 P.224『でも、じゃあ、相手のことを本当にわかるって、いったいどういうことなのだ?』 そこで、恋愛を諦め、結婚を諦め、出産を諦める。 しかし、年齢が上がり、ある程度仕事の見通しが立って生活に少しだけ余裕がうまれると自らの孤独に打ちひしがれる。 P.286『わたしから街や人は見えるけども、どこからもわたしは見えないような気がした』 夏子は孤独を感じると、旧い思い出に浸る。どれも暖かくて楽しい良い思い出だが、その全てが、完膚なきまで完璧にみすぼらしく惨めである。 それでも、どんなに惨めでみすぼらしくともこの女性にとっては孤独を癒す大切な思い出なのである。 夏子と対照的に、日本的血縁主義的家族神話に生きた女性が用いられる。 p.347『自分の人生を犠牲にして家を守ってきたという自負と恨みがあるんだと』 男性と男性的社会への痛烈な批判。「なんで女だけが痛いんだ」という叫びは、結婚・出産を経た女性にも等しく孤独を感じさせていることの現れだ。 ここで『乳と卵』を読んだ時のような感覚を思い出し、恐ろしいような、申し訳ないような、おっしゃる通りでおます、とまたぷるぷる震えてしまう。 出産、子育て、女性。 子供を産めるのは女性だけの特権であり、呪い。その特別な権利と痛みは男性には絶対理解できないだろう。 さらに追い討ちをかけるように見せかけの尊敬・理解を示す男性に対して「-知らねえよ」(p.388)と一蹴される。 そうですよね、理解して欲しくもないだろうし、理解してますオーラを出されるの嫌悪、また嫌悪ですよね、これは本当に申し訳なく頭が下がる一方で、下がり続ける頭の先をぷるぷるさせて井戸でも掘って冷たい水を飲んで頂ければご機嫌少しは戻られるでしょうか、いやそんな水くらいでご機嫌とろうという浅はかさこそ愚かなオトコという生き物でして頭で井戸なんてほれませんし、僕ったら本当に申し訳ござりません、とぷるぷるが止まらない。 物語が終盤に差し掛かると、より孤独感を感じるようになる。 誰もがどうやら等しく有しているとされる子供を持つという能力。「自分の子供」という存在に会いたい。この痛切な願いを責めることは誰にもできない。 しかし、そこで反出生主義の女性と出会う事になる。 生まれてきたばっかりに、生まれてこなければよかった、どうしてわたしを生んだのか。 こうした怒りや哀しさは、この本の登場人物たちにとっては当然の感情でもある。むしろ、主人公夏子、巻子、そして緑子も反出生主義に与しても不思議ではない。 それでも、夏子には巻子がいて、緑子がいた。そして思い出の中には母がいて、コミばぁがいて、九ちゃんもいた。完璧にみすぼらしく惨めだが暖かい思い出があった。 夏子にとって、思い出の中の人たちにもう一度会いたいという願いこそ、自分の子供に会いたいという願いの起源だったのではないか。それが、この物語の最後のページの言葉に現れたのではないか。 最後のページでまた再び、ぷるぷる震える。

約2か月前

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カラフル

思春期の物語だった。 この時期にはなんでもできるという万能感と、そこに立ちはだかる社会の不条理が立ちはだかる。 そんな中で普通の人生は嫌だ、なにか特別な人生にしたい。そんなファンタジーに浸る。 そして特に平凡さや普通さを憎らしく思う。 普通っぽい毎日は白黒で味気ないものに映る。 しかし平凡とか普通なるものが最も難しく、そして尊いものであるという事に気付いてゆく。 自分を理解し、他人を理解し、健全な野心と安心感を作りあげる。 ここへ至って白黒だった毎日がカラフルな、みずみずしく生き生きとしてくる。 この物語は思春期心性の物語だった。 しかし、こういう体験をしないと豊になれないというのは本当に、『この世は疲れる。』(p.156)

2か月前

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乳と卵

生々しく、痛々しく、少し血生臭い匂いがしつつも同時に瑞々しい女性性の物語。 巻子の豊胸手術、取り留めのない多弁さ、咳止め薬(ブロン?)依存、ダブルバインデッドなコミュニケーション、母子家庭、大阪。 その巻子の娘である緑子の緘黙、初潮、ナプキン、母親への同一化拒否、空虚感、見捨てられ不安・・・ これら全てが嫌な予感しかしない。 この物語に漂う女性特有の血の匂いに耐えられない男性も多いかもしれない。 この嫌な予感と漂う血の匂いに臆病な男性である私はなんだか怖いような目が回る感じがしてぷるぷる震えながら読んでいた。 思春期特有である(かどうかはわからないけども)どこか身体の成長とこころが足並みを揃えられていない感覚、特に身近な同性である親に同一化を見いだせない場合はより強く、身体という器とこころが別のように感じるのだろう。 それが、この作品の卵だったのかもしれない。 白くて丸みを帯びている様は女性性を現しているようにも見え、殻の中にはどろどろした本体が入っている。 そして卵を有していて産めるのもまた女性だけの特権であり枷、呪いなのかもしれない。 終盤、緑子は大きな声で泣きながら、パックのたまごを自分のからだにぶつけ、どろどろしながら巻子を責める。 巻子も同じように卵を自分にぶつけて応える。 このシーンこそ、緑子が自分の殻を破って緘黙という身体から解放されたことであって、巻子にとっては実の娘に痛めつけられるような出産の追体験だったのではないか。 人は生まれた時、どろどろしている(らしい)し、大きな声で泣く(らしい)。 思春期を迎えてこの母子は再び生まれて子となり、親になったのかもしれない。 この体験で母子は救われたのかもしれない・・。 こんな事を考えると涙がでそうになり、またぷるぷる震えてしまった。

2か月前

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箱男

箱をかぶって生活する。 社会生活に参加せず、箱の中で生活をする。 いや、箱とともに生活すると言うべきか。 箱男にとって箱はどんな価値を持っていたのか。 衣服とも異なる。衣服は見る・見られると言う相互作用・間主観が生じるものの、箱の場合見るという機能は箱男に与えられ、他者は見られることのみであり見る事は与えられない。 これは平岡解説の言う視点の交換、偽物と本物が入れ替わると言う価値の変化とも言えるかも知れない。 そしてどうやら箱に入ると安心するようでもある。 「すべての光景から棘が抜け落ち、すべすべと丸く見える。(中略)この方が自然で、気も楽だ。」(P.21 ) 箱は安心感の器、自分と他者・世界を隔ててくれる枠としての役割になるのかもしれない。 箱と共に生活する箱男、そして箱の持つ機能・役割を考えると、「ひきこもり」という現象を想起させる。 箱の中に避難し、自身の安全を確認する。多くの人は、毎回安心感がある場所に退避せずとも安心感は恒常性を保って外出したり、他者と交流したり、いわゆる社会生活を行う。 しかし箱男は箱から出ることをしない。ライナスのようにブランケットを握り締めるよりもより強固な、安心感が保てるバリアがなければ自分を保つ事ができない。 これはまさにひきこもりと同様の状態ではないか。 「さなぎ」という言葉で箱男の心理が描写されるように、ひきこもりの心理もさなぎと例えられる事が多い。 さなぎは撤退するためではなく羽化するための変態であって、ひきこもりもその人にとっての助走期間、人生の夏休みといえるのかもしれない。 箱男も、若い看護婦と接した事でこの安心感の枠が揺さぶられる事になる。 それは交流とも言えないほど低次元であり、おそらく箱男の妄想的知覚が主ではあると思うけれども彼の世界が大きく揺さぶられる事となった。 やがて箱を捨てられるかもしれないという淡い期待がよぎる。 『彼女との出会いで、もしやその機会をつかめたのかと、密かに期待していたのに・・』(P.64) 箱男は看護婦に対して自分を無条件に助け出してくれて心的にも性的にも受け入れてくれると期待したのかもしれない。 『小型精密機械』(P.122)のように言う事を聞いてくれる、望みを叶えてくれると信じたのだろうけども、病院の窓を覗きみたところで混乱が起きる。 (偽?)医者と看護婦との親密(?)なやりとりを見た途端、医者を贋医者と評価し、贋箱男と認識する。 おそらく、本当は自分(箱男)こそが看護婦を獲得するべきなのに立ちはだかった医者へ投影同一視が起きたのだろうとも考えられる。 これ以降は場面が目まぐるしくかわり、関係念慮、妄想的知覚にエピソード、いわば支離滅裂な病理的な次元へ降りてゆく。 どこで箱男を救えただろうか、などと考えるのは手前勝手ではある。しかし、少なくとも贋箱男と知覚した段階で何かできたのであれば、この後の物語もかわったのかもしれない。 そして、実際のひきこもりも同じようにどこかのタイミングで何かできたのではないか、という局面があったのかもしれない。 それでも、『全国各地にはかなりの数の箱男が身をひそめているらしい痕跡がある。そのくせどこかで箱男が話題にされたという話はまだ聞いたこともない。』(pp.14-15)のである。 (間違っても無理矢理部屋から引き摺り出すのは悪影響しか残さない事をお忘れなく。)

2か月前

0023de40 54f1 41ba ba84 80dbfed96b7cIcon user placeholder93767bec f45d 44fd b1a9 e4478e084284Icon user placeholderIcon user placeholder002afacd 03e0 43cb b351 f3a04e318b710970f3da 8bc1 4a63 b77a adf191cda81a 41
恋文の技術

なんとなくのんびりして鬱屈した感じの大学院生が能登の地から京都の学友・悪友へ向けて『文通武者修行』と称して約半年に渡って送り続けた手紙の全貌がこの物語である。 手紙にはどうしても出来事と出来事の間にタイムラグが生じるものにも関わらず、何故か生き生きとした物語として楽しく読めてしまうから不思議な体験。 どこか自尊心が歪んだ感じの主人公だが、その割には友人に恵まれていて羨ましくもある。 妹にも手紙に付き合って貰えているんだから感謝しろ、といった返信が送られてくる有様である。 愚兄賢妹とはよく?言われるけれどもこの主人公守田一郎の妹もまた例に漏れずよくできた妹。 『知的好奇心の全貌がつかめない』と言わしめるだけある妹。 その他にもオモチロオカチイ友人・先輩たちのキャラクターもあって物語に引き込まれてしまう。 そして手紙という長さ・分脈やタイミングが制限されるにも関わらず、能登や京都の描写、キャラクター達の個性、そして一連の物語にあっという間に巻き込まれてしまう体験が心地よい。

3か月前

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火星に住むつもりかい?

積極的な密告を奨励する制度、全く無実であっても「自白」が得られれば公開処刑される近未来という設定は、日本の伝統いやもとい、ディストピアに他ならない。 公開処刑は、群衆と同一化する事でカタルシスを得ようとする病的な自他境界の曖昧さへ導く。 まるでハロウィンやらサッカーやら年末だかになぜかわざわざ遠方から電車を乗り継いで渋谷で群れる人たちがいるように、狂乱は心地よい変性意識状態に導くのかもしれない。 物語の設定としてはSF的荒唐無稽さもある。執行するのがなんで法務省ではなく警察なのか、根拠法はどう成立したのかなどなど、描かれる仙台の街並と登場人物たちの心理描写がリアルなために逆に突っ込みを入れたくなる。 しかし、伊坂幸太郎的世界では暗殺者が妻の尻に敷かれてボルダリングジムで友だち作ったり、新幹線で銃撃戦が起きたりするから世論がそうなっても不思議ではないのかもしれない。 とは言え、現実はどうか。 幸い安全警察も特高もいないが、テレビで「容疑者が逮捕された」となれば、「いつかやると思ってました」的同級生と「そんな人とは思いませんでした」的近所の人が代わる代わる現れ、ネットに個人情報がばら撒かれる。 まだ容疑がかけられている段階であっても、こいつは巨悪だと感じさせる。 そしてこの物語と同じく、「あぁ危険人物がいなくなってよかったね(まぁ自分には関係ないけど)」とか思っている。 この物語の登場人物。 ある会社でリストラをさせる部署で働き、全く共感のかけらもない人物が密告によって突然捕まり、自白させられて処刑された時、好き好んで拷問する刑事たちが血を流し、絶命した時、「ざまみろ」と思っている。 こうした「悪いヤツ」が傷付き破滅してスカッとした時、なんだ、公開処刑観に行くのってこんな感じかな、なんて思ってしまう。 気付けば、群衆側にいる恐ろしさを感じる。 そこで、『人間が人間らしく振る舞えるのは、群れていない時だけだ。』(P.450)という言葉にギョッとする。 しかし、人間らしさは、残酷さか、善良さか。 この物語において「善良さ」は「お人好し」とか「偽善」と言う言葉をもって容赦なく、ずんだシェイクの枝豆よりも細かく粉砕されてそれがもともと善良さだったのかずんだだったのかわからない状態になる。 『火星で住むつもりかい?』と言うけども、結局火星に行ったところで我々人間は移住組と火星生まれ組で集団作って排斥しあったり、ホバーカー的な浮かぶクルマで煽り運転して捕まった残念でイタイ奴のモノマネとかして遊ぶんだろうな、と感じる。 とはいえ、どこにいっても同じだからこそ人間らしく考え、行動する事が重要じゃないかとも思う。 振り子は振れるけども振り幅は抑えられるはず、と願いたい。

3か月前

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ツナグ 想い人の心得

回復の物語。 前作の依頼者の多くが対象喪失危機の只中にあったのに対し、今作ではどちらかというと喪失から一定程度の時間または距離を置けている依頼者が多かった。 即ち、前作が「急性期」の物語であったならば今作は「回復期」、「慢性期」或いは「寛解期」の物語だと感じる。 オープニングとなるプロポーズの心得では、他者を愛することについて、父親不在の男性が主人公となる。彼は、自らの人生における父親不在の感情は彼の葛藤を形成しているがどうやらそれを受容できていたようだ。 しかし、誰かを愛するに先立って、偶然にもツナグによって葛藤は再度処理された。こうして、彼は次の場所へと繋がった。 繋がったのはプロポーズだけでなく、前作とも完璧な繋がりを見せているところが圧巻でもある。 歴史学者の心得ではこれまでにない依頼者が現れる。 実際には歴史学者ではなく郷土史家なのではないかとツッコミたくもなるが、彼のアイデンティティは歴史学者なのであろう。このアイデンティティを否定してしまうと彼の人生は破綻してしまうだろうから。 アイデンティティといえばE.エリクソン的な老年期の危機である。自分の人生に意味はあったのだろうか、という危機であり、統合へ至るか絶望へ至るかの最後の段階でもある。 そして、自らがその危機の只中にあることは自身でよく理解できていたようだった。なぜなら『鮫川は、愚鈍ではないからだ』(p.109) 母の心得でも同様に、対象喪失から時間を経た2人の母と2人の長女の物語である。時間の経過によって、それぞれが前に進もうとする前に、そして前に進んだ後に、娘に再会する。どちらも急性期を過ぎた後にどう生きるか、喪った者としてどのように次へ進むかを考える。 そして、唯一の急性期の物語であるのが一人娘の心得である。この急性期をどう乗り越え、次にツナグのか。 これが思い人の心得へと、そして5つの物語が完璧に繋がる。 そして、これらの物語の季節は冬に始まり、春に終わる。 生きてるうちに何度季節が巡るだろうか、などと考える。誰かを喪っても季節は巡り、次の場所へ向かってゆく。 ツナグは決して死者の物語ではなく、生者の回復の物語であり、残された者の人生をいかにツナグかを支える使命なのだろうかと考え、震えてしまう。

約1か月前

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「甘え」の構造

辻村深月の『傲慢と善良』と、さる専門雑誌にて和田秀樹先生が「甘え理論」について言及していたのでもう一度読んでみる。 甘えは日本人特有の気質であり、ソーシャルスキルでもあるようだ。 従って、「甘え上手」な人は社会的にも有利である。 欧米文化が原罪即ち罪悪感の文化であるならば、日本人は恥の文化であるとは菊と刀でもその後の文化人類学でも概ね認められているとも思う。 西欧や北米の人たちは、どんな場面でも選択肢が与えられる。本書でも土井先生がアメリカにて体験した「紅茶に砂糖をいくつ入れるか」とかいちいち選択肢があり、決定せねばならんと記述があったし、高校から自分どのカリキュラムを選択して授業を履修するか、自己決定権がある。 日本では、出されたものを出された通り飲んで食べるし、場合によっては大学でさえ履修すべき授業を選択させてくれる事もあると聞く。 これでは、自分で決定するという体感が身につかない。 本書では「祭り」についても少しだけ取り上げられていたが、今日の、渋谷のハロウィン騒ぎは日本人らしさが出ていると感じる。 信号が代わり、警察官の指示と号令の基にぐるぐる走り回るさまは盆踊りと酷似している。 太鼓の音に合わせてぐるぐるぐるぐる同じ動きをみんなと一緒にぐるぐるする。 そして日本人はみんなでぐるぐるが大好きだ。 盆踊りもみんなでぐるぐる、茶道もみんなでぐるぐる、ディズニーランドは左から右回りでぐるぐる、ラーメンのなると巻もみんなぐるぐる、暴走族もブンブンぐるぐる、最近はグルコサミンだってみんなでぐるぐるだ。 みんなでぐるぐるしてるとなぜか幸せな気分になるものだ。 さて。 恥の文化は、内と外という感覚を育み、欧米における公共性という感覚を育む事はなかった。 日本人が礼儀正しいだの、災害時にも整然としている事が「素晴らしいと欧米メディアが絶賛している(と日本人が言う)」時も、これは欧米における公共性というよりは、個人で決定する事を避け、誰かが決定し行動する事を待っているだけに過ぎないのではないかとも感じた。 これだけ個人の自由が認められ、自由が普遍的な価値観であるとされ続けた戦後幾数十年ではあるけれど、現在の日本人も個人の自由というものを軽視している。 これは、やはり個人であることに耐えられず、集団における個人でなければ安全・安心できないからに他ならない。 だから、「わがまま」は許されないけれど「気まま」は赦される。食事や旅行をするにも大人数は許されて個人は許されない。 学校に入る前に友達100人できるかな?を歌わされ、みんなで仲良くしましょうと言われ、ちょっとみんなと違う経験をしてるからって教師も一緒になって疎開児童を「セシウムさん」と渾名され、ランチメイト症候群だのぼっち飯だのがとてもさびしく恐ろしいものに感じる。 孤独は恥ずかしいもので、「ぼっち」と言われるのはなぜかを考えると、土井先生の甘え理論に立ち返ってくる。 甘えとは相手あってのものである。 甘える・甘えられるという関係性は、とても温かく自然で、原初的な母子関係に近い関係性である。 これが、旧い日本社会を指して「欧米が父性社会で日本は母性社会だ」とされる所以でもあるだろう。 母子関係は依存的関係であり、子供は原初的没頭の母親に抱えられ、万能感を満たし、攻撃性が生じ、抑うつを経験し躁的防衛を経る。 この体験こそ「甘える」という事であって、甘える練習を養育者との間で練習し、別の相手にも甘え、甘えられるように成長していく。 甘えとは、クラインの理論のようであり、コフートの理論のようでもある。 和田先生曰く2000年頃から土井先生の「甘え」理論は読まれなくなっているそうだ。 この頃からは「自己責任論」の時代が到来し、甘える事が許されなくなっただろうか。 これは日本人が成長し、より良くなった結果だろうか? 成長と言うと、フロイト曰く、エディプス(父親)葛藤を超える事が成長即ち人格統合であるという。 社会的にも、これまで父親葛藤はずっと存在していた。 戦前世代への反発としての学生運動。 学生運動していたかと思うと授業に出て髪を切って就職活動を始めた世代への反発としての親父狩りや校内暴力。 暴れまわって利己的な事をやっていたかと思うとバブルを謳歌するだけだった世代。 何も残さなかったと反発する失われた30年(ミレニアム・プレ/ポスト3.11、ジェネレーションXYZ世代) これらはいずれも父親葛藤のようであり、先の世代への同一化拒否である。しかし、流れを見れば、同一化拒否があっても結局は反発した世代も次の世代からは同様に同一化拒否を叩きつけられ、反発されている。 このように考えれば、昨今の風潮である職場の飲み会拒否も、働き方改革も、先の世代の価値観への同一化拒否であり、「もうそれは許さないぞ」という攻撃性である。 ハラスメント然り、飲み会然り、そんな甘え方は通用しないぞ、下の世代であるわたし達に甘えんなと。 ところが、昨今では若い世代に対して自己責任がより一層の強い圧力として表出している。 老後は2000万円貯金しておけ、災害対策も国に頼るな、などである。 ここへ至って、甘えは相手が見えなくなり、「他者」になったようである。(和田2019) 相手があっての甘えであったが、相手はいつの間にかいなくなり、見えない「他者」となった。 これでは、これまで日本人の社会を動かしていた甘える・甘えられるという基礎的なコミュニケーションのパターンが通用しない。 日本人にとって甘えを失う事は、言語を失うことと同じではないか。 このままではバベルの塔の崩壊後のように、コミュニケーションが成り立たなくなるかもしれない。 もっと甘えてもいいし、甘えられるのもいいじゃないかと恐ろしくもなってくる。 (ここまで2019.10.28) その他 P.108 日本人にとって自由は死の中にしかない。 P.126 「こんにちの社会の人間関係は昔に比べて容易に人を甘えさせない」 P.157日本人の被害者意識。 甘えの心理。丸山真男の指摘。 指導的立場にある人たちであっても被害者意識に悩んでいるという逆説的事実。 潜在的な被害的心理、甘えの心理。 p.159 甘えを媒介にして人との共感関係を経験したことが少ないと目標に執着する、しかしその目標は非現実的である。

約1か月前

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ツナグ

新刊(続編)が出ると聞いて慌てて読んでみる。 対象喪失と対象関係の再配置の物語だった。 「生まれついての死刑囚」である人間にとって死は誰にでも平等に訪れる。 大切な人である対象にも例外なく、平等に。 しかし、死は時として前触れなく、行くものも残る者も、どちらにも十分な準備ができていないうちにやってくる事もある。 その時に感じる対象喪失体験は残された者にとって深い体験となる事は多いし、当然でもある。 死の受容、或いはモーニングワーク。 否認、怒り、取引、抑うつ、そして受容。 対象喪失では概ねこの4段階を経る。いずれの段階に費やす時間とエネルギーは均一ではなく、場合によってはある段階に何年も何十年も留まり、或いは受容へ至る事ができない事も多い。 そして、喪失した対象が自己にとって重要であればあるほどに、時間とエネルギーが必要になる。 構成が素晴らしいのは喪失した対象が徐々に身近で、かつ激しくなっていく点。 「アイドルの心得」では他者。通りすがりでかつ、面識もほとんど無い、一方通行の好意を抱いた相手に対して。 「長男の心得」では、初老を迎えた父親、家督を継いだ男性にとっての母。 「親友の心得」は疾風怒濤の時期にある思春期女性にとっての親友。 「待ち人の心得」ではプロポーズを経た後これから生活を共にしようと待ち望んだ夫にとっての妻。 そして、「待ち人の心得」では。 徐々に愛着対象が身近に、記憶も鮮やかに、喪失体験も激しいものへと移ってゆく。 それでも死者にもう一度会うという体験を通じて、残された者は死を受け入れ、その体験を自己に取り込んでゆく。 取り入れられることは驚嘆や尊敬、安心感や自己肯定感など暖かいものだけでなく、罪悪感と言った激しいものも含まれる。 陰性の感情も陽性の感情も、混然一体となった感情ひとつひとつが激しい感情の集合体としてのコンプレックスは、ツナグによる体験によってそれぞれの関係性が星座のように繋がり、やがて残った自己が航海を続ける上で人生にとってのコンステレーションとなる。 使者と書いてツナグと読む。ツナグのは今生きている人の過去と現在と未来という、自己の同一性だったのかもしれない。 ここまですごい物語だったのに続編が出てしまう。 しかし、すぐに読み始める前に少しだけ時間を置きたくなるのはいまこの物語を読んだ体験を次にツナグための時間がほしいからかもしれない。

約2か月前

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傲慢と善良

確かに恋愛小説だった。 日本的感情表出型家庭。 「隣のナントカさん家のホニャララちゃんはこうなのに・・」「親戚のあの子は大きい会社に就職して・・」「小学校の時のナントカちゃん、もう結婚して子供もいるんだって・・」 これは決して珍しいものではなく、実際にはよく見受けられる日本的家族コミュニケーションのカタチでもある。 このコミュニケーションの形は増えてもいないし減ってもいない。 しかし、終身雇用も年功序列型の昇給もなくなり、年金制度も概ね崩壊している替わり(?)に、FacebookやInstagramが存在する現代において、この家族神話だけは神聖にして不可侵であるようだ。 この神話の中で『普通に恋愛』(p.289)できなかった人たちは、『在庫処分のセールワゴン』(p.212)で自分にピッタリあう商品を探しているつもりが実際は長所と短所だの、履歴書(身上書)だのを作りつつ、浮かないようにと服装と髪色を周囲に合わせ、個性を出すべきか没個性を出すべきか悩んでいる間に自分が在庫処分ワゴンに載せられている。「増税前にどうぞ」なんて札もマジックで書かれてたりして。 そしてワゴンにいる事が恥ずかしいような、手にとってみて欲しいような、そもそもワゴン漁る客はこっちだったはずなのに・・なんて哀しくなる。 この哀しさはきっとアップデートされない神話によるものだろうし、この神話に生きる人たちは皆、『「皆さん、謙虚だし、自己評価が低い一方で、自己愛の方はとても強いんです。』(p.109)ということだろう。 アップデートされない神話のことを神々の黄昏と呼ぶとカッコイイよとワーグナーが昔言ったとか言わないとか。 いずれにしても傲慢さ、とは自己愛のことだろうし、善良さは愚鈍さのことで、どちらも日本人の性質である。 かつて土井健朗は、日本人のパーソナリティについて「甘えの構造」があると分析した。 結婚によって、『親に代わる依存先』(p.407)となる別の「イエ」に入るという事も「甘え」の力動によるものが大きかったのだろう。 しかし、それぞれがそれぞれの強固な家族神話を有し、『「自分の物語が強い』(p.136)と、少しづつ、コミュニケーションに、大切にしたい事、されたい事にズレが生じる。 主観と主観の狭間、間主観を共有できず、互いに知覚されている事実にズレがうまれ、なんで結婚したいのか、「70%の相手」でいいのかと考え始める。 この『傲慢と善良』の時代になぜ結婚するのか。 神話を再現するためか、先に結婚して孫ができたナントカちゃんをこれみよがしに羨ましがった両親をはじめとした周囲への仕返しのためだろうか。 『長い長い、人生で。出会いなんてなくて。この先、自分が一生一人かもしれないと不安に思って。周りから結婚していないことで何か思われていそうだと思って、どうにか、一人じゃなくなりたいと、結婚したい、人と付き合いたい、恋人がほしいと思っていたんだとしたら。 私のように。 ありえない、と蓋をする前に、ほんの少し、考えてみても、よかったんじゃないのか。』(p.381) 物語の最後の段階でようやく、主人公たちは「自分の意志」を示しはじめる。ここでようやく自己愛を乗り越え、他者と自分を理解し、赦し、『次の場所』(p.375)へ進む事ができたのだろう。 確かにこの物語は”恋愛”小説だった。 こんな事ばっかり考えてるから自分はいつまでも結婚できないんだろうな、と思うのは傲慢だろうか。

約2か月前

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美女と竹林

まさに『机上の竹林』である。 日常のなんでもないことをオモチロイように書いてしまう恐るべき妄想的表現力がこの作者の特徴。 京都は不思議な場所だがこの作者の文章もまた不思議な魅力をはなっている。 まるで深淵を覗くかのような表現でありつつも実際は深いわけでもなんでもない詭弁が重ねられた文章だったり、それが「妄想的」と言わしめる所以なのだろうと思った。

2か月前

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想像ラジオ

(個人的な震災時の体験と思ったことを読書メモとして残します。ご了承ください) あの日のことを思い出す。 あの日は金曜日だった。 都心は電車が止まり、帰ろうにも帰れない。じゃあちょっと飲んで帰ろうか。そんな人も多かったと思う。 まだiPhone3GSと4の時代だった。 たった7年、8年前だったけど、情報が伝わるのは今と比べると信じられないほど遅かった。 東京では非日常の金曜日を楽しんでいた。 しかし、だんだんと津波の被害が伝わってきた。 iPhoneを持っていた人、PCのブラウザからニュースを見た人、充電を気にしながらワンセグを見た人。 そういう人たちからとんでもない事が起きているようだと伝えられた。 「電車のこと?」「ちがうよ、宮城県だって」「なにが?」「地震」「え、東京じゃないんだ」「宮城は津波がひどいって」「津波?30センチでも危ないらしいよね」まだ覚えている。こんな会話がなされていたことを。 その後は生きた心地がしなかった。 海岸に信じられない数の遺体が打ち上げられている。第一原発は全ての電源を喪失した、水素爆発した、避難所で物資が足りない、燃料は流されてきた車からとるしかない、都心もガソリンがない、水は汚染されたんじゃないか水を買い占めよう、もう東日本に人は住めないかもしれない、各国大使館員の退避と自国民退避命令、輪番停電、間引き運転、鳴り止まない緊急地震速報。 あの時以降、日常は損なわれた。 あの日をどう伝えるか。何をどう伝えると、後にどう伝わるのか。 東京大空襲、原爆投下、敗戦と同様に。 『相手の気持ちを理解しきれないと思う罪の意識があるからこそ、その言葉に耳をふさいでしまう』(p.126) 自分でなくてよかったという安堵と生き残った罪悪感。 我々はこの思いをどう伝えるか。 『無言で敬う』(p.130)事ができればいいだろう。しかし、それほど現代の我々は気丈でいられるだろうか。忘却こそ罪であるのに。 そこで、想像ラジオが聴こえる人と聴こえない人の章が活きてくる。 はじめは聴こえる人の特殊性が強調される。 そんなことありえないだろう。軽々しいシャーマニズムは冒涜でしかない。それもその通りだと思う。 どうしても思い出す。 流される直前までマイクに向かって避難を呼びかけ命を落とした人、屋根から手を差し伸べた人、階段の真ん中だけは空けて黙って座った人、停電に耐えた市井の人たち。そして絶望的な中で生存者を探し、遺体を探し、アルバムやランドセルを生まれたての赤ちゃんを扱うように丁寧に保存し、同時に原発を鎮めようと決戦に挑んだ自衛隊員、消防士、警察官と作業員、ボランティアたち。 こうした日本人の高貴さを。 想定外という言葉で罪を免れようとする者、他県ナンバーの車で乗り付けて被災住宅を窃盗する者、被災ゴミの受け入れを拒絶する者、震災にまつわる詐欺をはたらく者、疎開してきた子供たちを教師さえも一緒になってセシウムさんとあだ名していじめ抜いていく者たち。 こうした日本人の野蛮さを。 高貴さと野蛮さ。 どちらも等しく日本人の姿だった。 このことを忘れない。 こんなことを思い出しながら読み進めると、想像ラジオは普遍的な人間らしさを刺激してくる。 『え、これ、誰かのエピソードじゃないよね?はっきり僕の思い出だって感じてしゃべってたんだけど。』p.186 ここに至って、日常を失った人たちを思う。突然、予兆なく、完璧に日常を喪ったあまりにも多くの人たち。 いや、あの日以来、我々からは等しく「日常」なるものは永遠に損なわれたんじゃないか。 今でもあれ以前の日常は損なわれたまま、戻ってくることはない。 おそらく、これがこの物語で体験する生と死の狭間なのだろう。

2か月前

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四畳半王国見聞録

続編ではないにしても『四畳半神話体系』に連なる物語と言えるかもしれない。 日常と非日常のほんの小さな狭間を楽しむ物語だった。 だらだらした日常のなかに少しだけ不思議なこと、クスっと面白いことがあり、ふとしたことが広大で深遠な宇宙的なるコンステレーション(布置連関)にはっと気づくように、まるで悟りに近いようで全く異なるくだらなさに直面する事があるような気がする。 この物語は京都、四畳半、大学生といくつかのサークルという極めて限られた時空間での物語である。 しかし、かつて松尾芭蕉の詠んだ「古池や蛙飛び込む水の音」について、宇宙的な深遠さと静謐さとコンステレーションを見出した人たちがいたように、この物語もまた極めて狭小な世界に無数の宇宙が誕生し、そして重なり合い、離れていくさまを感じるような気もする。 手が届きそうでいて同時に森閑さに深淵を覗き、手が離れる。 ミクロコスモス、バタフライエフェクト、なんでもいいけれどもこういう物語や交流に惹かれるのかもしれない。 日常と非日常、或いは凡人と非凡人、友人以上恋人未満、こうした事の狭間にある宇宙的で深遠な繊細さを楽しむ物語だった。 『たとえなんでもない一日でも、我々はつねに何事かを学び、立派な大人になっていくのだ』(p.124)

2か月前

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大いなる不満

不条理なエピソード満載の短編集。 表題『大いなる不満』の通り、この本は不満しか残らない。 不条理に感じる物語というか、著者は不条理小説を書きたくて書いたんだろうな、と感じさせてくる不条理さがあって、物語に夢中になるというよりは不条理小説を書くための技法マニュアルが物語的手法をとっているという不条理さがあり、不条理な物語における不条理さとはこの類の不条理さであって、他の不条理が不条理であるためには別の不条理的視点を以って不条理であることを不条理にも定義付けた上で核心的不条理さに対して不条理な姿勢で接近するという不条理な必要性があり、従って弁証法的不条理によってのみ不条理の存在を不条理にも確認するという不条理さよりは、不条理である事を不条理にも納得したうえで不条理を以って不条理を超越する不条理こそが真に核心的不条理である不条理な所以を、不条理の不条理による不条理のための不条理小説として不条理に体験させるべく不条理不条理したこれぞ不条理という不条理を不条理に書こうとしたんだな、と読書が勘付いてしまう不条理な不満がある。 つまり、面白くない。 白々しい一人称が延々と続き、無味乾燥で色彩がない。 限界まで薄めたカルピスのように味気なく、それでいて濁っている不愉快さ。 読んでいるうちにだんだんと集中力が散漫になり、やがて本が手許から離れる、又は就眠する。 眠るための本としては最適。 狙った不条理は不条理と言えないんだな、と勉強になった。

3か月前

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きつねのはなし

正気と狂気の狭間で揺れる不思議な物語だった。 ひたひたとした冷気のような恐さが漂い、どこか普通ではないという違和感、世界が段々と不穏な恐ろしいものへと変わっていく、そんな体験ができる物語だった。 現実検討力、自他の境界や自我同一性がゆっくりと曖昧になものになる。まるで芥川龍之介の『歯車』のように。 人間の自我が現実原則と幻想、正気と狂気の狭間で危うげなバランスが保たれるているのかもしれない、そんな怖さを感じる。 短編小説でありつつも京都と言う土地、不思議な古物商、そしてきつね或いはケモノという緩やかな繋がりがある。 いや、緩やかに繋がっているという知覚自体、ひょっとすると既に妄想的な関係念慮なのか・・ と、言うとさすがに病的に過ぎるかもしれないけども、そんな不思議な怖さがある「怪談」であり、どこかノスタルジックだった。 その他 『ふざけた狐の面がくっついていて、それはどうしても取れない。』(p.59)

3か月前

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かがみの孤城

死と再生の物語だった。 不登校は学校へ行くという選択しかしなかった人たちが理解する事は難しく、特に親の立場であったなら、自分の子供が学校に行きたくないと言ったら動揺し、登校を促進し、或いは失望するかもしれない。 残念ながらこの2019 年はまだ学校に行くという事が「普通」であって、学校へ行かない事は「普通ではない」と考える人が多いのが実情だろう。 実際には保健室登校や相談室登校、学区外転校も可能であるし、義務教育期間であれば、各自治体の教育委員会に設けられている「教育相談施設」で教育相談の他、母子並行面接などのカウンセリングもうける事ができるし、適応指導教室も存在する。 「適応指導教室」って名前はまるで某国の「労働改造所」的ネーミングセンスだが実際はそんなおそろちい場所ではなく、学校的な空間に戻らない・戻れない・戻りたいけどまだムリ、という子どもたちの居場所として各自治体の教育委員会が運営しているフリースクール的空間である。 もちろんNPO運営フリースクールだってあるだろう。ようするに、選択肢はたくさんある。 この作品でも不登校がテーマであり、主人公たちは等しく学校(或いは家庭にも)居場所がなく、成長途中の人間に最も必要である「安心感」と「保護感」が損なわれている。 そこで、幻想的空間である『かがみの孤城』が彼女・彼らの居場所となる。 ジグムント・フロイトからはじまり脈々と発展してきた精神分析学の治療構造は、非日常空間を人工的に用意し、そこでの体験を通じて葛藤の解決を目指すことが共通の土台であって、『かがみの孤城』はまさに、治療空間として機能しているように感じられた。 この孤城において子供達は、失った安心感と保護感を感じ、自分達の共通点と相違点を見出していく。やがて自分を理解し、他者を理解し、自他双方を赦すという体験をする。 はじめのうち、この子たちはどこかぎこちなく、独りよがり。 同じ空間に何人かいても独り言と独り遊びのようである。 しかし、徐々にひとりごと(モノローグ)は対話(ダイアローグ)となり、ひとり遊びはごっこ遊びを経て共に遊べるように、関係が深まっていった。 この変容が生じたのは言うまでもなく日常から外れた非日常空間だったからであり、非日常空間であるためには「ルール」が必要となる。 関係が深まったところで重大なルール違反を犯した子どもがいた。ルール違反には相応の劫罰があるが、それは乗り越えられないものではない。 ここまで来て、別れの段階へ至る。 しかし、別れはもはや彼女・彼らの世界を壊してしまう恐ろしいものではなく、安心感と充足感に満ちた安全で未来へ進むための別れである。 この子たちの心の中で安心感は恒常性を保った強いエネルギーになっただろう。 この物語は死と再生の物語であり、死の床に臨む、即ち臨床的な物語だった。

3か月前

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