山下澄人の本

しんせかい

しんせかい 山下澄人

生まれた家の、生まれた庭のいっちばんおおきな樹の下に、真っ赤なオウムのなきがらを埋めたことはないのに、埋めたときの左指が土に触れた記憶がある。母は君があたしの腹のなかで逆さになっていたときだよというけど、ぼくはそれをみて、この頭にとどめている。そこにあるのは懐かしさではなくて、それとしか言いようのない、残像だ。 山下澄人『しんせかい』はまさに残像の小説だと思う。「ぼく」はみている、聴いている、触れている。美化された記憶を語っているのではない。かといって客観的な記録でもない。そもそも、みている「ぼく」が不確かな語りをなし、ぼんやりとしたリアルの複数性を示唆する。 この小説は「あ行」でも「さ行」でもなく「は行」でできていると思う。句読点の使い方もうまい。冒頭の乱れ、交わる記憶も。そして、視点がとんでとんで、いつのまにか遠いところにいっているのも。ああ、うらやましい。

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コルバトントリ

コルバトントリ 山下澄人

行ったり来たり。時限を超えて気持ちと魂と体が行き交う。難しくて読み返したいのに、先へ先へと引きこまれる。

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砂漠ダンス

砂漠ダンス 山下澄人

向かいの席にすわるヨーロピアン男性が口元に運ぶ、そのサンドウィッチにはさまれたレタスとして、わたしが彼にたべられる瞬間を想像する。Caucasianらしい頑丈なアゴにはさまれるわたしは、そのかまれる衝撃すら、小学校6年生のときに学校のジャングルジムから転げ落ちて腕を折った衝撃を導入しておぎなってしまう。あるいは高校3年の夏にみた、大きなトラックがせまり、左腕を顔の前に差し出す、その恐怖をも導入する。Starbucksで、サンドウィッチとして咀嚼されることを、いっしゅ経験したような気持ちになれるのだから、なんとも優雅だ。 思い出も、夢も、経験も、そして妄想も、今という交差点、るつぼのなかで混ざり合い、ときには加工されて、わたしの前に提出される。まさにそれが「いま」であって、いまは過去や未来に従属するものではない。いま、しかないんです。 山下澄人『砂漠ダンス』。『緑のさる』よりもあとで、『しんせかい』の前に書かれた作品。『しんせかい』がまともにみえるほど、『緑のさる』『砂漠ダンス』は、くるっている。でも、その狂いは、おもに、「わたしがあなたで、わたしは世界です」というようなことなんだけど、この生きているということが、尊いとおもえるような、ふしぎな心地にさせてくれる。『砂漠ダンス』はもっと、大胆に時間軸と空間軸をいじっているけど、その文跡はかわらない。 わたしはわたしをみている、というとき、わたしはわたしではなくて、むしろ世界の視点にちかい。わたしが生き死にするとき、わたしでないひとが生き死にするときを経験する、あるいは想像できたとき、もっと優しくなれると思う。

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緑のさる

緑のさる 山下澄人

その女の子とは、今もよく会うんだけど、大学の1年生の夏にフラれたこともあって、でもそのフラれる前の前の日くらいに、大学の寮の裏手にある駐車場のところで、せなかをがっちゃんこして歩いたのは、夢かもうそうかリアルかわからない。ぼくはその娘と付き合いたかったからぼくはぼくを彼女の目で何回もみたから、ぼくはその女の子でもある。 視点が移るということは、その娘の目にも、その娘をみている星の目にも、その星をみている世界の目にもなれるということで、その目は過去にもむかえば、未来にもむかう。ぼくは、わたしは、彼も彼女も生きていて、死んでいて、世界の目としてみると、この、ここに、存在してくれてありがとうってなるのは、すげぇ。 山下澄人『緑のさる』は、すごくなんというか、つながっているっていうこと、それはモラルとか共同体とかかんけいなく、つながれ!ではなくて、正味、つながっているんだよ、と教えてくれて、ぼくはとなりでいつもラップトップをがちゃがちゃ叫ばせる嫌われものにもやさしくなれた。そして、好きな女の子に対しても、なおさらで、次に会ったときに、会った瞬間、泣いてしまったらどうしよう。そんなことを考えている。

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