1940年代ベルリン。
まるで本当に体験したかのような生々しい描写が恐ろしい。
ベルリンという都市が見せた三つの顔。
戦前、即ちベル・エポック期。
WWI敗戦後、夏の終わりに間違ってうっかり出てきてしまったゴキブリの如く、スリッパの裏で完膚無きまでに叩き落とされ、こき下ろされたゲルマン民族の自尊心。
それを忘れようと煌びやかに飾り立てた豊かな文化を誇ったコスモポリタニズム的大都市ベルリン。
幻想的思想、いや、独りよがりで自慰的な夢想を基に再構築された砂上の楼閣、”世界首都ゲルマニア”としてのベルリン。
プレスの効いた制服を着たSSやヴェールマハトがいなくなり、代わりにヤンキーと赤農軍(あとモンゴメリ将軍とチャーチルと国王に忠誠を誓った軍)たちに占領され、廃墟と化し、人間の生き残りたいという渇望と生き残ってしまった罪悪感、そして文字通り”動物たち”が解き放たれた『神々の黄昏』としての、統合を喪い分裂したベルリン。
一つの都市が三つの様相を見せる。
かつて、最も先進的な憲法を有していたヴァイマール共和政の中間層市民たちは、世界恐慌の後拡大するプロレタリア階級と貴族(ブルジョアジー)の狭間に立たされて、不安と疎外感に陥った。
その不安と疎外感は失ったゲルマン民族の誇りに置き換えられ、国家社会主義や歪められた超人思想への傾倒を促した。
この作品でも主人公の親はドイツ共産党の支持者であり、孤児となった後彼女を匿ったのはブルジョアジーであった。
そして冷徹な目で周囲を観察し、不条理への憤りを抑圧し、葛藤が形成されている。
その葛藤はやがて攻撃性を刺激する。
その葛藤は『全て戦争のせい』だったのだろうか。
この主人公たちの戦争は終わったのか。
『戦争は終わった。世界は美しい。』(p.186)と言うが、この恐るべき暴力の時代と人の尊厳がタバコの紫煙ほどしか薄かった世代に美しい世界は本当に訪れたのか、『ベルリンは晴れているか』?
『この国は、もうずいぶん前から、沈没しかけの船だったんだ。どこがまずかったのか、どこから終わりがはじまってたのか、最初の穴を探し回っても、誰もはっきり答えられない。全部が切れ目なく繋がっているからさ。
だけど俺たちは意気揚々とーあるいはおっかなびっくりで船に乗り込み、自信満々で新しい国旗を翻させる船員たちに櫂をまかせた。』(P.459)
この描写は恐ろしい。我々にこの自覚があるだろうか。
しかし、残念ながら物語として面白かったか、というと満足しきれない。
もう少し、ほんのもう少しだけ物語が生き生きとしていれば、ベルリンは晴れただろう。