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イトウ 学生 |
古道具店の話。
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イトウ 学生 |
古道具店の話。
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ノノハル my本棚の前で立ち読みしてしまい… |
中野商店の日々が綴られています。
店主中野ハルオと店主の姉マサヨとタケオと語り手のヒトミ。
皆の名前がカタカナなのが、不思議な空間をかんじさせる。
なんだか変で不器用な日々、人生という道のチョット外れを歩いている人たちの話。
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6人 |
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森へ行きましょう
同じ日に生まれた「留津」とルツ、平行世界に生きるふたりはあったかもしれないもう一ついや数多くの可能性を秘めた人生という名の森を歩む。 「無数の岐路があり、無数の選択がなされる。そのことを「運命」というらしいけれど、果たして「運命」は、一本道なのか。左を選んだ時の「運命」と、右を選んだ時の「運命」は、当然異なるはずで、だとするならば「運命」は選択肢の数だけ増え続けていくのではないか」p.106 この運命の奇妙さとはいかに。 そして奇妙な運命というやつに翻弄されながらも「みんな、森に行っちゃうんだな。ルツは思う。森で、迷って、帰れなくなって、でもそれでも、いつの間にかどうしても森に行っちゃうんだな。」p.548 人生という森は怖くもあるけどおかしいこともある。 「すあま、食べたかい。ピンクのすあまが、おいしいよ」p.410
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某
家族、愛情をめぐる物語。 幻想小説かもしれないし、SFかもしれない。 いずれにしても奇書、だと思う。 書店で偶然立ち読みを始めて奇怪な物語に一気に引き込まれてしまった。 それまでの記憶が一切ない、自由に姿形性別も変えられるという存在が主人公である。 物語にはどこか優しさと危うさを感じる。 この存在は人間と類似の姿をしている様子だが、人間性はあまり豊かでは事が多いようで、感情が偏っていたり、或いは欠如していたり、そしてその行動も何処か偏りがある。 人間性とは共感性ではないか、と考える。 親(家族)がいて、ピア(友人)ができて、恋人を作り、家族ができる。 しかしこの存在には始まりの時点で家族は存在せず、ある日突然この世界に誕生する。 物語冒頭の医師と看護師が疑似的な両親の役を果たそうとする。しかし、姿形・性別・年齢が変化してしまう(させる)ために、成長という物語を十分に吟味できない。 ここで、家族関係或いは重要な、親密な他者と関係を結ぶという事は物語を共有する事である、という考えがよぎる。 所謂ナラティブな関係性、或いは家族神話と呼ばれるものであって、その物語を共有するためには共感性が必要となる。 共有できる物語と共感性が有ればこそ、対人関係・対象関係は円滑で愛情深くなるのだろう。 そして、人間の姿に擬態するが人間性、共感性に乏しい彼等は家族や親密な他者をなかなか獲得できず、そして日々の糧も安定がなく何処か居心地が悪そうでもある。 居心地が悪くなれば、或いは何かのきっかけがあると姿形・性別・年齢・性格も変化させる。 解離性障害。 この古くて理解が難しい精神疾患をどうしても連想してしまう。 この疾患は多くの場合、幼少期早期の心的外傷或いは、幼少期早期から継続される養育者の情緒的応答性欠如がその病因とされる。 記憶が途切れる解離性健忘、記憶が交代して別の人生を送ってしまう解離性遁走、自分の姿が別の視点で見える離人症、そして人格の交代が生じる解離性同一性障害と様々な様相を見せる。 最も困難な場合は養育からの虐待によって、虐待されている時の自分を感じさせず、別の記憶・人格を構築してやり過ごそうと始まり、やがてストレスに直面する度に新しい人格を形成させるようにしてしまう。 従って、人格は二重人格から多重人格へ移行してしまう。 この疾患のひとたちとこの物語は重なってしまう。 彼等に必要なのは、他者との十分に安全で保護された安定した関係性であり、そのためには共感性をもてる他者との交流が必要となる。 この物語は人格を統合する物語であり、損なわれつつある人間の共感性に迫る物語だと思う。
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100万分の1回のねこ
「100万回生きたねこ」 大好きな絵本を、これまた大好きな作家さん達がこぞってトリビュートした贅沢な一冊 どの作品も、生と死というテーマを重く温かく表現しています 絵本の書評ではなく、文学作品として扱っているところがいい 多くを問いかけます
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猫を拾いに
短編集。上手く言い表せないがほっこりする話たち。
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