恩田陸製『GenerationZ』或いは『Walking dead』と言うと怒られるだろうか。
SF、ゾンビもの、アイザックアシモフ的ロボットもの、ゆるやかディストピア。
国土の3割が汚染され住めなくなった日本において、除染作業に携わるアンドロイド、そして立ち入り制限区域にはゾンビやらクリーチャーがごそごそしている世界だ。
物語の前提として、文明世界は健在であり、日本国とか政府・行政府も通常通り仕事をしている。
ユーモアと皮肉に溢れているのは、忘年会や省庁間のいざこざ、利権団体誘導的政治(家)といった「日本文化」までご丁寧に健在なところがゆるやかディストピアたらしめている。
登場主体は人間の女性、ロボットたち7体(ウルトラセブンと言うと商標登録に引っかかるのでウルトラエイトらしい)、そしてゾンビだ。
ところが不思議なことに、感情移入してしまう対象はロボットたちである。
このロボットたちは上司の指示と職務規定に従って毎日労働に勤しむ。
決まった時間に起床し、神棚に手を合わせ、p.14『「安全第一!」』とスローガンを唱え、指差し確認もする。
これらは現在の人間が行なっている仕事、営みそのものであり、「日常」である。
そこへ突然、国税庁から来たという女性、即ち「非日常」が入り込んでくる。
非日常を体験するうちに彼らはこう思う。P.162『もはや、ニッポンはダメかもしれない。そんなことを考えたのは初めてのことだった。』
つまり、非日常が人間(ボケ)で日常がロボットたち(ツッコミ)というこれまた日本的な構図が皮肉を帯びて見出される。
ポスト3.11に生きていて、そして(生き残る事ができれば)アフターコロナの世界でいかにより善く過ごせるだろうか。
p.493『その時その時で生きていかなければならないのも分かる。家族を養い、従業員を養い、食べていかなければならないという事情もわかる。自分がその立場に立った時、止むを得ない選択だというのも理解できる。だが、それでもなお、問わずにはいられない。ご先祖の皆様方。どうしてあなた方は「やめる」という選択肢を選ばなかったのか』
この台詞が突き刺さる。
その場その場を凌ぐため、その時その時の場当たり的な、内省・洞察なき即物的・即効的対応は最善と言えるだろうか。
そうではなく、在り方についての理想があり、そのために具体的方策を見出すべきではないか。
従って、具体的よりもまず抽象的から。木を見て森を見ず、上部概念から下位構造へ、戦略を策定して戦術を繰り出す云々。
この物語のロボットたちにはあるべき理想が策定されている。
それはロボット三原則、本作ではモラル三原則だ。
どうすればこれに抵触せず、最善を尽くせるかを彼らは考えられる。
まず理想とする姿があって、個別具体的行動をとる。
これこそ、人類が発展させてきた文明の善なる部分の姿であって、目先の欲求を留め、より大きな最大化された幸福、大義を獲得することが社会の正義、公共性ではなかったか。
この緩いディストピアの時代、緩やかに地獄へ落ちてゆく世界においてもう一度原理原則に立ち戻って理想の社会、世界について思わずにいられない。
それはそうと、物語として非常に面白く、あっという間の一気読みをしてしまった。