筑摩書房の本

仏との出会い―現代に生きる仏教

仏との出会い―現代に生きる仏教 紀野一義

読書家のなかには、或る時期に本の断捨離をしてしまう方も少なくない。 ただし数千冊を棄て果てたあとでも、紀野氏の著書だけは断捨離できなかったという人がおいでたほど、氏の著書にでてくる人物には魅力がある。 たしかな人を育てるにはどうしたらよいか。 それには絶望を友とさせることが最もよろしい。 中途半端な生き方をしている輩に、絶望なんてやってくるわけがない。 人は絶望のなかでのみ、龍が珠を吐くがごとく、まともな仕事をするのである。 人に裏切られても、己は裏切にことだ。 #リジチョー。

ベルリンは晴れているか

ベルリンは晴れているか 深緑野分

日本人の作家が書いているというのが信じられないくらい、描写が生々しく生と死が克明に描かれている。タイムラインがかなり前後するので注意が必要だけど、最後の手紙を読むだけでも価値あり。ドイツの話でありながら、その話を通してあたかも戦後間も無くの日本のことを話しているかのよう。

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決定版 天ぷらにソースをかけますか?: ニッポン食文化の境界線

決定版 天ぷらにソースをかけますか?: ニッポン食文化の境界線 野瀬泰申

タイトルに惹かれて。日本における食べ物の嗜好の分布をネットを使って調査し考察を加えたもの。じつに面白いしとても重要な作品とも思う。彼我の相違について、「違うからこそ面白い」と「違うからおかしい」という捉え方の違いには言葉にするより大きな差があると思う。少なくとも後者の立場を取る人間にはなりたくない。さて、本作における調査項目は以下のとおり。これが想像以上の違いがあって面白い。皆さんはさてどうでしょう?(笑) ・天ぷらにソースをかけますか、またはかけていたことがありますか。 ・紅ショウガの天ぷらを知ってますか。 ・小豆やお餅が入った甘い食べ物をなんと呼びますか。 ・中華まんには何かつけますか。 ・呼び方は肉まんですか、豚まんですか。 ・鉄板で焼くコナモンが好きですか。 ・釣鐘型のたこ焼きはありますか。 ・お肉とは牛肉、豚肉、それとも? ・豆の炊き込みご飯はありますか。 ・いわゆる「冷し中華」を何と呼びますか。 ・それにマヨネーズをつけますか。 ・甘納豆が入った甘い赤飯を食べる地域ですか。 ・茶碗蒸しに砂糖を入れますか。 ・茶碗蒸しに栗の甘露煮は入りますか。 ・卵焼きは砂糖入りで甘いものですか、出したっぷりで甘くないですか。 ・味噌汁に唐辛子など辛いものを入れますか。 ・ニラの味噌汁は普通にありますか。 ・漬物を煮ますか。 ・福神漬けをなんと読みますか。 ・カレーライスに卵を乗せる場合、生卵ですか。 ・住んでる地域にカレー蕎麦はありますか。 ・納豆は好きですか。 ・納豆に砂糖を入れますか。 ・正月に食べる「年取り魚」は鮭ですか鰤ですか。 後半は嗜好の境界線を体感するために東海道を歩いて京都まで行ったり、糸魚川沿に新潟から静岡まで行ったりとにかく労作。素晴らしかった。

人生居候日記

人生居候日記 種村季弘

数年に一度読み返すエッセイ集。読み返すたびに印象に残る文章が変わる。初読時に強烈だったのは、タライを酒で満たした中に男性が2人あぐらをかき、互いのタライの酒をひたすら柄杓ですくい飲み比べという『酒の上で死ぬ』。おしゃれなエッセイと程遠い、尿臭と便臭漂う文章にたじろぎページを閉じたが、この方の発する猥雑さには惹きつけられた。それから二十数年。団体旅行の群れに脅かされながら一人裏町を歩く『あまのじゃく旅行術』、居酒屋で飯食うなという『酒場ぎらい』に今回は惹きつけられました。人生居候っていう佇まいがいいですね。

つくられた卑弥呼―“女”の創出と国家

つくられた卑弥呼―“女”の創出と国家 義江明子

卑弥呼×ジェンダーということで、発想は素晴らしい。よく知られているが漠然としか知られていないものを、これまでと異なる切り口で構成し直すのは、よい考察の一つの類型である。 そして、最終章は悪くない。「神秘の巫女、卑弥呼」像がたかだか明治に新しく作られたものであることを示そうとした狙いは良い。けど、明治以前は本当にそう描かれていなかったのか、いまいち説得的でない。また、明治40年に出された論文(本書の中では神秘の巫女像を普及させたという位置付け)はどういう背景で出されたのか、この2人の研究者はどういう人で何を考えていたのか、よく分からない。それが分からなければ、「神秘の巫女」像の虚構性も分からない。 また、次の3つの理由で、全体が説得的でない。 1.全体の大きな結論として何が言いたいのか分からない。 (タイトルを見ると、卑弥呼が実務を行っていたことを示す、という明確なテーマがあるように思うけど、実際には卑弥呼以外に関する記述の方が多い) 2.仮に大きな結論があるとして、そこに向かって個々の部分が有機的に構成されていない。 3.個々の議論の証拠が不十分。 特に3について、 ・記紀の記述を鵜呑みにしすぎ。記紀の作られた意図を少しは考慮して割り引くべきところは割り引いて読むべき。 ・とは言っても記紀はよく分かっていない以上、もっと物的証拠も考慮すべき。記述だけに頼りすぎ。 最終章を一番はじめに持ってきて、もっとまじめに既存の卑弥呼像の虚構性を証明して、それから本論に入るべきだったと思う。構成の仕方次第では良い本だったと思うのに、残念でならない。考えてみれば、「男王を立てたが国が治まらなかったので女王を立てた」という魏志倭人伝の説明は簡単すぎて納得できない。もし本当に女性に政治的実権がないのであれば、男王→女王の転換はそう簡単には起こらないはずだ。だとすれば、それはいかにして起こったのだろうか?

ハモニカ文庫と詩の漫画

ハモニカ文庫と詩の漫画 山川直人

四畳半一間、古本、静かな夜、レコード、ボブディラン、純喫茶、コーヒー、フィルムカメラ、慎ましい恋… 小さな町、名もない人々のささやかな物語をえがいた漫画短編集。

オペラの終焉: リヒャルト・シュトラウスとの夢

オペラの終焉: リヒャルト・シュトラウスとの夢 岡田暁生

19世紀、西洋音楽にとって最も幸福な時代に、オペラは大衆への娯楽性と新しい表現を開拓する芸術性を両立する存在だった。けれど、20世紀から徐々にオペラは大衆にとって“娯楽”ではなくなり、少数に受け入れられる“芸術”としての側面を追求するしかなくなった。そして現在に繋がる。 この本ではその境目に生き、奇しくもオペラ最期の光を生み出してーー遂には20世紀に追い越されてしまった作曲家シュトラウスを通して、一つの偉大な文化の終焉を見ることができる。 オペラの終焉と題にはあるが、文化のありように大差はないだろう。現在の映画やアニメ、漫画もまた、このような終わりを迎えるのだろうか。

魔術的リアリズム―メランコリーの芸術

魔術的リアリズム―メランコリーの芸術 種村季弘

1920年代、ヴァイマール共和国にて表現主義への反対命題として登場し、ナチス成立によりあっけなく終わった美術界の現象について書かれています。8名の画家については代表的作品の解題が行われます。静かで美しい作品群です。特に表紙を飾るエレボー『隠者』、草創期の飛行機へのこだわりが足穂を思わせるラジヴィルの『ストライキ』、シュリンプフ『窓辺の少女』が印象的です。後半ではオランダやアメリカへの影響にも触れられます。2004年にキールで回顧展が行われたと解説にあり、地図検索しました。遠いな・・。

おにいちゃん―回想の澁澤龍彦

おにいちゃん―回想の澁澤龍彦 矢川澄子

澁澤龍彦の最初の妻だった矢川さんによる回顧録。澁澤の死後に書かれています。書くことを躊躇したというフレーズが何回も出てきます。しかし矢川さんは書いてしまった。しかも澁澤の仕事に自分が関与していたこと、澁澤との性交渉などについて克明に書き綴ってしまった。相手は故人で最早なにも弁明出来ないのに。そのくせ延々おにいちゃんと呼び続ける。これは個人的なノートかなにかに書いて秘しておくべきだった文章だと感じました。そんな矢川さんも自ら命を絶ち、みんな《彼(THEY)等》となった。もう、それでいいのではないでしょうか。