コメント
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さとしおおわき 本屋になりたい |
装画に惹かれます。中身も少し立ち読みしましたが、まだ買ってません。
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Kenny 書くこと、読むこと、走ること |
向かいの席にすわるヨーロピアン男性が口元に運ぶ、そのサンドウィッチにはさまれたレタスとして、わたしが彼にたべられる瞬間を想像する。Caucasianらしい頑丈なアゴにはさまれるわたしは、そのかまれる衝撃すら、小学校6年生のときに学校のジャングルジムから転げ落ちて腕を折った衝撃を導入しておぎなってしまう。あるいは高校3年の夏にみた、大きなトラックがせまり、左腕を顔の前に差し出す、その恐怖をも導入する。Starbucksで、サンドウィッチとして咀嚼されることを、いっしゅ経験したような気持ちになれるのだから、なんとも優雅だ。
思い出も、夢も、経験も、そして妄想も、今という交差点、るつぼのなかで混ざり合い、ときには加工されて、わたしの前に提出される。まさにそれが「いま」であって、いまは過去や未来に従属するものではない。いま、しかないんです。
山下澄人『砂漠ダンス』。『緑のさる』よりもあとで、『しんせかい』の前に書かれた作品。『しんせかい』がまともにみえるほど、『緑のさる』『砂漠ダンス』は、くるっている。でも、その狂いは、おもに、「わたしがあなたで、わたしは世界です」というようなことなんだけど、この生きているということが、尊いとおもえるような、ふしぎな心地にさせてくれる。『砂漠ダンス』はもっと、大胆に時間軸と空間軸をいじっているけど、その文跡はかわらない。
わたしはわたしをみている、というとき、わたしはわたしではなくて、むしろ世界の視点にちかい。わたしが生き死にするとき、わたしでないひとが生き死にするときを経験する、あるいは想像できたとき、もっと優しくなれると思う。
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8人 |
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ルンタ
どうして君はぼくで、ぼくは君ではないのか、と思うけれど、よくよく考えれば、君はぼくで、ぼくは君だ。それはなんというか単純なアナロジーの話ではなくて、むしろもっと根っこの語りの部分の話のような気がする。 山下澄人『ルンタ』。『緑のさる』以上に、ドラッギー。それはあらゆる小説のコードから逸脱している。語る存在が、語られる存在になり、その逆も然りだ。それはちょっと不思議な現象をもたらして、それが繰り返されていくと、一種のみえない共同体のような、シンパシーで繋がったものを生み出す。それは決してリアルな人間には分かり得ない。ひとつ次元が上の、けれども神の視点までは行かない、「間(あわい)」の存在による語りだ。 保坂和志が言うように、わからなくていい小説だ。わかろうなんてしないほうがいい。むしろ、一緒に狂い倒した先に初めて、何かソリッドなものに触れる程度でいいのかもしれない。
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緑のさる
その女の子とは、今もよく会うんだけど、大学の1年生の夏にフラれたこともあって、でもそのフラれる前の前の日くらいに、大学の寮の裏手にある駐車場のところで、せなかをがっちゃんこして歩いたのは、夢かもうそうかリアルかわからない。ぼくはその娘と付き合いたかったからぼくはぼくを彼女の目で何回もみたから、ぼくはその女の子でもある。 視点が移るということは、その娘の目にも、その娘をみている星の目にも、その星をみている世界の目にもなれるということで、その目は過去にもむかえば、未来にもむかう。ぼくは、わたしは、彼も彼女も生きていて、死んでいて、世界の目としてみると、この、ここに、存在してくれてありがとうってなるのは、すげぇ。 山下澄人『緑のさる』は、すごくなんというか、つながっているっていうこと、それはモラルとか共同体とかかんけいなく、つながれ!ではなくて、正味、つながっているんだよ、と教えてくれて、ぼくはとなりでいつもラップトップをがちゃがちゃ叫ばせる嫌われものにもやさしくなれた。そして、好きな女の子に対しても、なおさらで、次に会ったときに、会った瞬間、泣いてしまったらどうしよう。そんなことを考えている。
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しんせかい
著者が19歳の時、富良野塾二期生として暮らした2年間の体験をもとに書いた作品。小説を読むというより、自ら体験するようなドラッギーな傑作。ちなみに表紙カバー題字は倉本聰先生直々の筆です。
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コルバトントリ
行ったり来たり。時限を超えて気持ちと魂と体が行き交う。難しくて読み返したいのに、先へ先へと引きこまれる。
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