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Kenny 書くこと、読むこと、走ること |
向かいの席にすわるヨーロピアン男性が口元に運ぶ、そのサンドウィッチにはさまれたレタスとして、わたしが彼にたべられる瞬間を想像する。Caucasianらしい頑丈なアゴにはさまれるわたしは、そのかまれる衝撃すら、小学校6年生のときに学校のジャングルジムから転げ落ちて腕を折った衝撃を導入しておぎなってしまう。あるいは高校3年の夏にみた、大きなトラックがせまり、左腕を顔の前に差し出す、その恐怖をも導入する。Starbucksで、サンドウィッチとして咀嚼されることを、いっしゅ経験したような気持ちになれるのだから、なんとも優雅だ。
思い出も、夢も、経験も、そして妄想も、今という交差点、るつぼのなかで混ざり合い、ときには加工されて、わたしの前に提出される。まさにそれが「いま」であって、いまは過去や未来に従属するものではない。いま、しかないんです。
山下澄人『砂漠ダンス』。『緑のさる』よりもあとで、『しんせかい』の前に書かれた作品。『しんせかい』がまともにみえるほど、『緑のさる』『砂漠ダンス』は、くるっている。でも、その狂いは、おもに、「わたしがあなたで、わたしは世界です」というようなことなんだけど、この生きているということが、尊いとおもえるような、ふしぎな心地にさせてくれる。『砂漠ダンス』はもっと、大胆に時間軸と空間軸をいじっているけど、その文跡はかわらない。
わたしはわたしをみている、というとき、わたしはわたしではなくて、むしろ世界の視点にちかい。わたしが生き死にするとき、わたしでないひとが生き死にするときを経験する、あるいは想像できたとき、もっと優しくなれると思う。