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Kenny

読むこと、書くことが好きな人

読むこと、書くことが好きな人

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コメントした本

仮面の告白

人間は独りで生きていけるーー。と、思わせるほど、心理的ベクトルがうちに向かって、昂進する。 戦争は内的ロジックの華美のためのみに使われ、時折、言及されるかと思うと、すぐさま後景に退く。主旋律は「性」にあり、「性」の類義語が「偽」だと気づく。 決して露出狂的な性ではない。内に向かい、拗れ、捻れ、行き場を失ってしまった先にあるのが偽りであるということ。その「偽」は過去の記憶であり、冒頭の「生まれたときの光景」の記憶という偽史を信じる彼には当然のことかもしれない。 P.S. 「産湯を使わされた盥のふちのところ」という表現ほど、キャメラ的な一文はないと思う。

6日前

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砂の女

祖母がよく庭で育てた春菊を摘んで、おひたしにしてくれた。田舎の田舎の娘が作った小鉢だ。根元を水でさらっと流した程度の鮮やかな緑には細やかな岩石が混じっている。 あの音。右の奥歯にあってはいけないものを噛み砕こうとしたときの音。ガァリ、ガァリーー。決してあの小ささから想像できないほどの存在感を発揮する。あの無機的な存在は決して私のうぶで柔らかい有機的な身体とは相容れないと思わせてくれるには十分だった。 10年ぶりに手にとった『砂の女』は携える風貌を変えていた。かつて、やたらと逃げることのできない絶望感に気を取られていたが、むしろ今は逃げることそのものの、いきいきとした喜びしか、脳の襞に絡めとられない。 「逃げるな」は「逃げろ」に、「逃げろ」は「逃げるな」に内的に変換される世界。それは常に私たちが無意識的に行なっていることだとはゆめゆめ気づかない。 縄梯子を登りきったときの納得感。私は残るべきなのだと感じさせた濾過装置という《希望》はベクトルを反転させ、砂の世界へと向けられる。 砂という無機質な世界において初めて、私として必要とされ、生実感を感じ、有機的な人生を営めるという期待が彼を砂の世界に引き留めるのだ。

7日前

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ニムロッド

混沌としたテキストは、心地が良い。 時折、作者の執着とか「こう読ませたい」という意図が過剰な説明として表出すると、一気に興ざめてしまう。この感覚は、中学校の国語の授業に似ている。考えさせる授業のようで、実は「読み」に正解がある世界。答えがある世界を知ってしまったあの窮屈さを、それがわからない隣のまりえちゃんには伝えることができない悲しさが拍車をかける。 『ニムロッド』は墓標の前で一人佇む父親のように優しくて少し哀しげな小説だ。押し付けられる教訓も意味も持たない。あるのは語りだけだ。それ以上でも以下でもない。 語りの内実に一貫性はないように思われる。けれども何かリリカルな、物悲しげな気配は常にそこにある。それはおそらく、いや、明らかに田久保とニムロッド側の世界と、「僕」の世界が異なっていて、その断絶が埋まり得ないからだろう。 そして、上田岳弘特有の「人類」「過去」「未来」との親和性が、「種」としての人間の叙情性を生み出しているように思われる。

8日前

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鳥打ちも夜更けには

爆発的な一文というのがあると思う。それは、吉田拓郎の「私は今日まで生きてみました」だろうし、ひょっとしたら漱石の「吾輩は…」かもしれない。 悪名高い冒頭の一文は、想像をかき立て、下流の住民への避難指示がままならないほどのペースで、言葉の横溢が起きる。 『鳥打ち…』の冒頭、「沖山が架空の港町で鳥打ち…」という一文にこれほど惹かれるのはなぜか。フィクションの中のフィクションというマトリョーシカ状態。一種、恍惚としてしまったのは僕だけか。 実は後で固有名詞だと判明するが、この「架空の」という形容詞の射程は計り知れず、冒頭から最後のページに至るまで作用しているように思われる。

11日前

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痴人の愛

育てる、育て尽くして、恐ろしい存在を育ててしまったことに気づく。自分が飲み込まれてしまうとわかりつつ、御すことができない喜びに抗いきれなくなる。 性的な雰囲気、エロティックなムードが漂ってはいるが、何か潔いエロさであって、秘匿、覗き、隠すといういやらしさはあまりない。 あるのはどこまでもマゾヒスティックで、痴的な主旋律。その男は痴人として登場するが、あらゆる男の代表として退出する。ナオミは男のそれを引き出すトリガーでしかないのかもしれない。

7日前

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平成くん、さようなら

ファディッシュさを頻りにすくうことでみえてくる全体像がある。そこにあるのは個別具体的な個人というよりも、世代や時代のコホート的な抽象的存在。高橋源一郎が田中康夫『なんとなく、クリスタル』を80年代で最も優れた小説と言い張る点はそこにある。と同時に、文壇から総スカンをくらったのもその点にある。 『平成くん、さようなら』はそのファディッシュさから田中康夫的と言われうる可能性があるが、むしろその逆だ。『平成くん』の主題は近代文学が長年取り組んできた「死」の悩みであり、プレ田中康夫的、非コホート的と言い換えてもいい。 そして最も興味深いのが、たとえどんなにドリスヴァンノッテンのシャツを身に纏っていたとしても、「平成くん」が「昭和的だ」ということだ。日本という国に限られた元号という独特な制度に拘束された人間の苦悩を描いている点において、一昔前の昭和的な気配さえしてくる。 それは古市の意図が成功していないということを意味しない。実は平成が昭和の総決算、ロスタイムでしかなかったことを示唆しているように思える。「時代を背負った人間」と自己認識する「平成くん」の昭和らしさを垣間見たときに初めて平成という時代の「らしさ」が浮き上がってくるように思える。

8日前

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金閣寺

世界は想像だにせずほど、至極、単純。モノとコトがある。以上。ダン。 世界の複雑さは決してそこにあるのではなくて、むしろこちら側にある。というか人間がその世界の一部であるがゆえに厄介。 金閣寺の「私」は拗らせてきた人間の典型だ、などと考えると見誤る。多かれ少なかれみな拗らせてきた、ぼくたちわたしたち。AというとBになり、コーヒーといえばお抹茶になる。美しさは醜さで、潔さはスティッキーな女々しさだ。決してヒューマンビーイングではなく、「人」としか言いようがない存在。群像がややこしいのではない。人は群れなくてもややこしい。 最後のタバコをふかすシーンはなんて素晴らしいんだろう。金閣を燃やして得たものは、罪悪でも、自暴自棄でもなく、純粋な世界に対しての自信だった。

11日前

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双子は驢馬に跨がって

人間はそもそも、なにかを名付けることで初めて認識する。それは「羊」であり、「ロウソク」であり、「クリスティアーノロナウド」である。 けれど、それ(あるいは彼・彼女)であると名付けられる必然性はなく、「羊」は「牛」でもいいし、「ロナウド」は「王貞治」でもいい。王貞治はプレミアリーグでハットトリックを決められるのだ。 金子薫の『双子…』の冒頭は、父を「君子危うきに…」、息子を「君子」とするところから始まる。彼らの存在は個として危ういのみならず、父子としての関係においてもフラジャイルだ。 この存在の危うさはこの小説を貫く1つのリズムとして存在し、その脆弱に支えられたリズムが勝手気ままな双子を一種、「踊らせている」気すらしてくる。 そしてこの危うさを感じてしまった、その瞬間、父子と双子が出会うなどというエンディングは期待し得ない可能性としてあると気づくだろう。

11日前