64e50687 d69c 4a16 9e02 a2dc2e49048a

HSSISOLATED

人生で何度目かの読書熱

人生で何度目かの読書熱。 読書から遠ざかっていた日々を取り戻すかのように読み耽っています。

42

コメントした本

傲慢と善良

確かに恋愛小説だった。 日本的感情表出型家庭。 「隣のナントカさん家のホニャララちゃんはこうなのに・・」「親戚のあの子は大きい会社に就職して・・」「小学校の時のナントカちゃん、もう結婚して子供もいるんだって・・」 これは決して珍しいものではなく、実際にはよく見受けられる日本的家族コミュニケーションのカタチでもある。 このコミュニケーションの形は増えてもいないし減ってもいない。 しかし、終身雇用も年功序列型の昇給もなくなり、年金制度も概ね崩壊している替わり(?)に、FacebookやInstagramが存在する現代において、この家族神話だけは神聖にして不可侵であるようだ。 この神話の中で『普通に恋愛』(p.289)できなかった人たちは、『在庫処分のセールワゴン』(p.212)で自分にピッタリあう商品を探しているつもりが実際は長所と短所だの、履歴書(身上書)だのを作りつつ、浮かないようにと服装と髪色を周囲に合わせ、個性を出すべきか没個性を出すべきか悩んでいる間に自分が在庫処分ワゴンに載せられている。「増税前にどうぞ」なんて札もマジックで書かれてたりして。 そしてワゴンにいる事が恥ずかしいような、手にとってみて欲しいような、そもそもワゴン漁る客はこっちだったはずなのに・・なんて哀しくなる。 この哀しさはきっとアップデートされない神話によるものだろうし、この神話に生きる人たちは皆、『「皆さん、謙虚だし、自己評価が低い一方で、自己愛の方はとても強いんです。』(p.109)ということだろう。 アップデートされない神話のことを神々の黄昏と呼ぶとカッコイイよとワーグナーが昔言ったとか言わないとか。 いずれにしても傲慢さ、とは自己愛のことだろうし、善良さは愚鈍さのことで、どちらも日本人の性質である。 かつて土井健朗は、日本人のパーソナリティについて「甘えの構造」があると分析した。 結婚によって、『親に代わる依存先』(p.407)となる別の「イエ」に入るという事も「甘え」の力動によるものが大きかったのだろう。 しかし、それぞれがそれぞれの強固な家族神話を有し、『「自分の物語が強い』(p.136)と、少しづつ、コミュニケーションに、大切にしたい事、されたい事にズレが生じる。 主観と主観の狭間、間主観を共有できず、互いに知覚されている事実にズレがうまれ、なんで結婚したいのか、「70%の相手」でいいのかと考え始める。 この『傲慢と善良』の時代になぜ結婚するのか。 神話を再現するためか、先に結婚して孫ができたナントカちゃんをこれみよがしに羨ましがった両親をはじめとした周囲への仕返しのためだろうか。 『長い長い、人生で。出会いなんてなくて。この先、自分が一生一人かもしれないと不安に思って。周りから結婚していないことで何か思われていそうだと思って、どうにか、一人じゃなくなりたいと、結婚したい、人と付き合いたい、恋人がほしいと思っていたんだとしたら。 私のように。 ありえない、と蓋をする前に、ほんの少し、考えてみても、よかったんじゃないのか。』(p.381) 物語の最後の段階でようやく、主人公たちは「自分の意志」を示しはじめる。ここでようやく自己愛を乗り越え、他者と自分を理解し、赦し、『次の場所』(p.375)へ進む事ができたのだろう。 確かにこの物語は”恋愛”小説だった。 こんな事ばっかり考えてるから自分はいつまでも結婚できないんだろうな、と思うのは傲慢だろうか。

3日前

Icon user placeholder9ed1a4f2 e954 4da6 a0fb 3f60b0027f1d8a884bb6 91b2 49b9 b72e 8da40efa89ad200b526f 0c51 4923 9a31 572a92a046623c38a038 ffd2 4538 be9d 0b6c6d704a9c2cb5b581 20be 4158 85d4 1f1a29ad5c581525b978 75b4 4758 ae92 afa4d5728ad4 29
美女と竹林

まさに『机上の竹林』である。 日常のなんでもないことをオモチロイように書いてしまう恐るべき妄想的表現力がこの作者の特徴。 京都は不思議な場所だがこの作者の文章もまた不思議な魅力をはなっている。 まるで深淵を覗くかのような表現でありつつも実際は深いわけでもなんでもない詭弁が重ねられた文章だったり、それが「妄想的」と言わしめる所以なのだろうと思った。

10日前

C7f0df00 25f1 4f06 91ed 67a63af79707Cfc25a64 595b 4142 adeb 36e6a06608504d0235f6 d13c 4c9c bead 1a6b3560e4310e354e79 7832 447e b044 0e0ea7c3cd55E918e2ac 2786 4d01 a6f9 351e96a7380dIcon user placeholder80e02f84 921f 4faa be0d 64c6a3f8a453 32
想像ラジオ

(個人的な震災時の体験と思ったことを読書メモとして残します。ご了承ください) あの日のことを思い出す。 あの日は金曜日だった。 都心は電車が止まり、帰ろうにも帰れない。じゃあちょっと飲んで帰ろうか。そんな人も多かったと思う。 まだiPhone3GSと4の時代だった。 たった7年、8年前だったけど、情報が伝わるのは今と比べると信じられないほど遅かった。 東京では非日常の金曜日を楽しんでいた。 しかし、だんだんと津波の被害が伝わってきた。 iPhoneを持っていた人、PCのブラウザからニュースを見た人、充電を気にしながらワンセグを見た人。 そういう人たちからとんでもない事が起きているようだと伝えられた。 「電車のこと?」「ちがうよ、宮城県だって」「なにが?」「地震」「え、東京じゃないんだ」「宮城は津波がひどいって」「津波?30センチでも危ないらしいよね」まだ覚えている。こんな会話がなされていたことを。 その後は生きた心地がしなかった。 海岸に信じられない数の遺体が打ち上げられている。第一原発は全ての電源を喪失した、水素爆発した、避難所で物資が足りない、燃料は流されてきた車からとるしかない、都心もガソリンがない、水は汚染されたんじゃないか水を買い占めよう、もう東日本に人は住めないかもしれない、各国大使館員の退避と自国民退避命令、輪番停電、間引き運転、鳴り止まない緊急地震速報。 あの時以降、日常は損なわれた。 あの日をどう伝えるか。何をどう伝えると、後にどう伝わるのか。 東京大空襲、原爆投下、敗戦と同様に。 『相手の気持ちを理解しきれないと思う罪の意識があるからこそ、その言葉に耳をふさいでしまう』(p.126) 自分でなくてよかったという安堵と生き残った罪悪感。 我々はこの思いをどう伝えるか。 『無言で敬う』(p.130)事ができればいいだろう。しかし、それほど現代の我々は気丈でいられるだろうか。忘却こそ罪であるのに。 そこで、想像ラジオが聴こえる人と聴こえない人の章が活きてくる。 はじめは聴こえる人の特殊性が強調される。 そんなことありえないだろう。軽々しいシャーマニズムは冒涜でしかない。それもその通りだと思う。 どうしても思い出す。 流される直前までマイクに向かって避難を呼びかけ命を落とした人、屋根から手を差し伸べた人、階段の真ん中だけは空けて黙って座った人、停電に耐えた市井の人たち。そして絶望的な中で生存者を探し、遺体を探し、アルバムやランドセルを生まれたての赤ちゃんを扱うように丁寧に保存し、同時に原発を鎮めようと決戦に挑んだ自衛隊員、消防士、警察官と作業員、ボランティアたち。 こうした日本人の高貴さを。 想定外という言葉で罪を免れようとする者、他県ナンバーの車で乗り付けて被災住宅を窃盗する者、被災ゴミの受け入れを拒絶する者、震災にまつわる詐欺をはたらく者、疎開してきた子供たちを教師さえも一緒になってセシウムさんとあだ名していじめ抜いていく者たち。 こうした日本人の野蛮さを。 高貴さと野蛮さ。 どちらも等しく日本人の姿だった。 このことを忘れない。 こんなことを思い出しながら読み進めると、想像ラジオは普遍的な人間らしさを刺激してくる。 『え、これ、誰かのエピソードじゃないよね?はっきり僕の思い出だって感じてしゃべってたんだけど。』p.186 ここに至って、日常を失った人たちを思う。突然、予兆なく、完璧に日常を喪ったあまりにも多くの人たち。 いや、あの日以来、我々からは等しく「日常」なるものは永遠に損なわれたんじゃないか。 今でもあれ以前の日常は損なわれたまま、戻ってくることはない。 おそらく、これがこの物語で体験する生と死の狭間なのだろう。

14日前

Icon user placeholder52c763f7 7434 4184 8bd5 b00a8c1684a5D08c46be f694 44a1 8011 94d357c409b050ff831e bff4 4d10 a926 08b8593996ffF92a09c0 8b7f 49ed 82a2 7eb73343c797Icon user placeholder5c50f524 f6b7 412a b19b e458d59db9fd 54
四畳半王国見聞録

続編ではないにしても『四畳半神話体系』に連なる物語と言えるかもしれない。 日常と非日常のほんの小さな狭間を楽しむ物語だった。 だらだらした日常のなかに少しだけ不思議なこと、クスっと面白いことがあり、ふとしたことが広大で深遠な宇宙的なるコンステレーション(布置連関)にはっと気づくように、まるで悟りに近いようで全く異なるくだらなさに直面する事があるような気がする。 この物語は京都、四畳半、大学生といくつかのサークルという極めて限られた時空間での物語である。 しかし、かつて松尾芭蕉の詠んだ「古池や蛙飛び込む水の音」について、宇宙的な深遠さと静謐さとコンステレーションを見出した人たちがいたように、この物語もまた極めて狭小な世界に無数の宇宙が誕生し、そして重なり合い、離れていくさまを感じるような気もする。 手が届きそうでいて同時に森閑さに深淵を覗き、手が離れる。 ミクロコスモス、バタフライエフェクト、なんでもいいけれどもこういう物語や交流に惹かれるのかもしれない。 日常と非日常、或いは凡人と非凡人、友人以上恋人未満、こうした事の狭間にある宇宙的で深遠な繊細さを楽しむ物語だった。 『たとえなんでもない一日でも、我々はつねに何事かを学び、立派な大人になっていくのだ』(p.124)

17日前

74f6ebfc f4ae 4cfe b507 f62c505c8d2073b29d1b dab2 4ae0 a07e 170e1cc5755d6c876b72 6e94 463a 9040 7d8cef6d61b6Cfc25a64 595b 4142 adeb 36e6a0660850A20c6877 009d 4922 a0f4 4304c9f6c749155b52df bead 4c68 bdb4 91956914f3984c39dd78 33f5 447d b8f1 7031c02b83b5 34
大いなる不満

不条理なエピソード満載の短編集。 表題『大いなる不満』の通り、この本は不満しか残らない。 不条理に感じる物語というか、著者は不条理小説を書きたくて書いたんだろうな、と感じさせてくる不条理さがあって、物語に夢中になるというよりは不条理小説を書くための技法マニュアルが物語的手法をとっているという不条理さがあり、不条理な物語における不条理さとはこの類の不条理さであって、他の不条理が不条理であるためには別の不条理的視点を以って不条理であることを不条理にも定義付けた上で核心的不条理さに対して不条理な姿勢で接近するという不条理な必要性があり、従って弁証法的不条理によってのみ不条理の存在を不条理にも確認するという不条理さよりは、不条理である事を不条理にも納得したうえで不条理を以って不条理を超越する不条理こそが真に核心的不条理である不条理な所以を、不条理の不条理による不条理のための不条理小説として不条理に体験させるべく不条理不条理したこれぞ不条理という不条理を不条理に書こうとしたんだな、と読書が勘付いてしまう不条理な不満がある。 つまり、面白くない。 白々しい一人称が延々と続き、無味乾燥で色彩がない。 限界まで薄めたカルピスのように味気なく、それでいて濁っている不愉快さ。 読んでいるうちにだんだんと集中力が散漫になり、やがて本が手許から離れる、又は就眠する。 眠るための本としては最適。 狙った不条理は不条理と言えないんだな、と勉強になった。

22日前

89e302dc 61e2 4acf b97e bf2a8c22fa0e5c50f524 f6b7 412a b19b e458d59db9fd16818484 7e4d 4ed4 bd82 62312af3d3270394d359 3fef 483c 8570 6ae519a5118e931bc4b3 9cb5 48bb bed7 5c071e9c434a
きつねのはなし

正気と狂気の狭間で揺れる不思議な物語だった。 ひたひたとした冷気のような恐さが漂い、どこか普通ではないという違和感、世界が段々と不穏な恐ろしいものへと変わっていく、そんな体験ができる物語だった。 現実検討力、自他の境界や自我同一性がゆっくりと曖昧になものになる。まるで芥川龍之介の『歯車』のように。 人間の自我が現実原則と幻想、正気と狂気の狭間で危うげなバランスが保たれるているのかもしれない、そんな怖さを感じる。 短編小説でありつつも京都と言う土地、不思議な古物商、そしてきつね或いはケモノという緩やかな繋がりがある。 いや、緩やかに繋がっているという知覚自体、ひょっとすると既に妄想的な関係念慮なのか・・ と、言うとさすがに病的に過ぎるかもしれないけども、そんな不思議な怖さがある「怪談」であり、どこかノスタルジックだった。 その他 『ふざけた狐の面がくっついていて、それはどうしても取れない。』(p.59)

24日前

Icon user placeholder71e6ec47 210c 4981 b1b4 119aef0baddf75427b58 3ff0 4cf6 bf64 ff9bbfba28e9Cc6fcec3 d1dd 4fb7 97dc 155aaca949c149448683 e6cb 4bea 841b 0883d9480cf96c876b72 6e94 463a 9040 7d8cef6d61b6E7b94d4b 30a6 4cc0 a9a9 45ba8574a351 50
かがみの孤城

死と再生の物語だった。 不登校は学校へ行くという選択しかしなかった人たちが理解する事は難しく、特に親の立場であったなら、自分の子供が学校に行きたくないと言ったら動揺し、登校を促進し、或いは失望するかもしれない。 残念ながらこの2019 年はまだ学校に行くという事が「普通」であって、学校へ行かない事は「普通ではない」と考える人が多いのが実情だろう。 実際には保健室登校や相談室登校、学区外転校も可能であるし、義務教育期間であれば、各自治体の教育委員会に設けられている「教育相談施設」で教育相談の他、母子並行面接などのカウンセリングもうける事ができるし、適応指導教室も存在する。 「適応指導教室」って名前はまるで某国の「労働改造所」的ネーミングセンスだが実際はそんなおそろちい場所ではなく、学校的な空間に戻らない・戻れない・戻りたいけどまだムリ、という子どもたちの居場所として各自治体の教育委員会が運営しているフリースクール的空間である。 もちろんNPO運営フリースクールだってあるだろう。ようするに、選択肢はたくさんある。 この作品でも不登校がテーマであり、主人公たちは等しく学校(或いは家庭にも)居場所がなく、成長途中の人間に最も必要である「安心感」と「保護感」が損なわれている。 そこで、幻想的空間である『かがみの孤城』が彼女・彼らの居場所となる。 ジグムント・フロイトからはじまり脈々と発展してきた精神分析学の治療構造は、非日常空間を人工的に用意し、そこでの体験を通じて葛藤の解決を目指すことが共通の土台であって、『かがみの孤城』はまさに、治療空間として機能しているように感じられた。 この孤城において子供達は、失った安心感と保護感を感じ、自分達の共通点と相違点を見出していく。やがて自分を理解し、他者を理解し、自他双方を赦すという体験をする。 はじめのうち、この子たちはどこかぎこちなく、独りよがり。 同じ空間に何人かいても独り言と独り遊びのようである。 しかし、徐々にひとりごと(モノローグ)は対話(ダイアローグ)となり、ひとり遊びはごっこ遊びを経て共に遊べるように、関係が深まっていった。 この変容が生じたのは言うまでもなく日常から外れた非日常空間だったからであり、非日常空間であるためには「ルール」が必要となる。 関係が深まったところで重大なルール違反を犯した子どもがいた。ルール違反には相応の劫罰があるが、それは乗り越えられないものではない。 ここまで来て、別れの段階へ至る。 しかし、別れはもはや彼女・彼らの世界を壊してしまう恐ろしいものではなく、安心感と充足感に満ちた安全で未来へ進むための別れである。 この子たちの心の中で安心感は恒常性を保った強いエネルギーになっただろう。 この物語は死と再生の物語であり、死の床に臨む、即ち臨床的な物語だった。

27日前

E3d8a6bd b33a 40ed 9024 336e14e0a59d47a9b565 0d7b 4aa8 9e9a 3545b17ade0c200b526f 0c51 4923 9a31 572a92a0466243817637 4803 4a4d 988f 18075934cfa88ab211a1 14f9 490e b954 34710a4b15ba75427b58 3ff0 4cf6 bf64 ff9bbfba28e98817d9d2 f670 4857 8844 aad4222e18fe 544
夜は短し歩けよ乙女

2019年に至るまで読まず嫌いをしてこの本と作家を手に取らなかったことを強く後悔してしまう。まさに『こんなにオモチロオカチイ世界があっただなんて』である。 幻想の中で恋人を追いかけるストーリー、場ごとのモチーフ、一貫した親友と悪役などはオッフェンバックのオペラ『ホフマン物語』を思わせる。 かのオペラと異なるのは『ホフマン物語』が孤独と恥(或いは怒り)へ浸る物語であるならば、『夜は短かし歩けよ乙女』は愛しく温かい物語だった。 しかしこの京都と京大生のパロディというのは実際にあり得そうな幻想でもあって引き込まれてしまう。 実際にこのような登場人物たちがかの地にはたくさん居て、毎夜こうした不思議な出来事が起きているのではないか。そんな期待すら浮かんでしまう、それほどこの幻想的世界へ引き込まれてしまった。

約1か月前

75427b58 3ff0 4cf6 bf64 ff9bbfba28e974f6ebfc f4ae 4cfe b507 f62c505c8d20Cc6fcec3 d1dd 4fb7 97dc 155aaca949c10d3ceefa 52e0 4862 b03e 10de6f97da902af949e2 ba82 4727 ac32 bf9af12ccb90Icon user placeholder147b636e f7bc 4dcd b95b 758ad1e4092e 553
クジラアタマの王様

あっちの世界とこっちの世界、現実原則とファンタジーが絆的ななにかで繋がっている。 こうした物語で印象的なものは数多くある。 映画の『アバター』も文字通り宇宙生物に意識をインストール(ダウンロード?アップロード?)していたしキズナ的な感覚器官で他の宇宙生物を操っていた。 そして本好きならば(あえて文学好きとは言わないでおこう)村上春樹『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』も等しくあっち(幻想)とこっち(現実原則)を往復しつつ世界を救う的な物語だった。 古今東西、あっちとこっちを行き来しつつ世界を救う物語は沢山あるし、普遍的な集合的無意識が物語として顕れているのかもしれず、『アバター』や『ハードボイルド〜』もまた等しく匿名的で普遍的だった気もする。 東 浩紀氏曰く匿名的なセカイ系、といったところか。 では、なぜこの物語に星をつけるのか? 面白いから。 東 浩紀氏概念的なセカイ系に対してこの物語は東京、宮城という土地、日本的な男性アイドル、日本的な政策立案者(議員)、モラハラ・パワハラ・セクハラといった極めてにっぽんドメスティックな土壌・文化、そして社会を批判的に眺める眼差しがなければ楽しめない物語なのかもしれず、普遍的足りうるかというとちょっと苦しいのも欠点かもしれない。 そして犠牲を払えば多数が救えるが・・というジレンマもどこか興醒めなところもあった。 それはそれでエンターテイメントとして面白く楽しい物語だったし、そういう体験があってもいいではないか。 なによりアクションシーン(?)の描写が活字でこれだけ引き込ませるのはテンポ・語彙・文脈と鮮やかで、なるほどポンポン映画化される作家の表現とはおそろちい、と上から目線になってしまう。 この物語は、いまや古典的手法かもしれないあっち(ファンタジー)・こっち(現実原則)モノ=セカイ系(©︎東 浩紀)を伊坂幸太郎の爆発的な表現力によって陳腐さのない新鮮な体験ができる物語でした。 (アクションの描写はあとがきにも触れられていた。この本はあとがき先読み派の人もあと読みをお勧めしたいところ) その他 『「お節介なんです。帝王切開で生まれてきたし。」』(p.100) これは普段使い出来そうなフレーズ。 『拍手とブーイング』(p367)どちらが望み?

約1か月前

801196d5 8c77 4f11 b225 35cc4b0d120e994e4877 2baa 4443 953d 8efec2a34d2cIcon user placeholder0970f3da 8bc1 4a63 b77a adf191cda81a6aee530d 57e8 479d bc8f 2a26d5c69141Icon user placeholder6c297c28 f15b 4bd1 b046 0af57a8709c9 19
四畳半神話大系

薔薇色で有意義なキャンパスライフを送れずいじけるいっぽうの数年を過ごした全ての人に読んでほしい。 この本を読んでいると自分が学部生だった頃を思い出して虚しくなる。しかも、なんだか自分もこういったことをやっていたような気がするから腹立たしい。 そこで、『あぁ、じつに、生き方に工夫が足りなかった。私はなんてまっすぐだったのであろう。』(p.30)などとほわほわ考え、「もし、あの時違う選択をしていたら」、「もし、もう少しだけ運が向いていたら」などと過去を振り返る。 そうは言っても、 『寺山修司はかつて、書を捨てて街へ出やがれと言ったと聞く。しかし街に出て何をしろというのだ、この私に。』(P.220)と思い直すと、結局自分に伝説の至宝「薔薇色のキャンパスライフ」を手に入れる事は出来なかったに決まっていると再びいじけてしまう。 つまり、この物語体験とは、どんな選択をしていたとしても結局代わり映えのしない数年間だっただろうし、自分は自分でしかなかったのだ、という過去・現在・近未来にかけての自己同一性について洞察する極めてE.エリクソン的ライフサイクル体験ができるSF小説なのかもしれない。 その他 『赤ちゃんがおしゃぶりをしゃぶるように箱庭の権力をしゃぶり続け、』(P.47) 『負けてたまるか。 人恋しさに負けてたまるか。』(P.54)

約1か月前

夏物語

女性性の物語。 どのように生きるかを真剣に、まっすぐ考えさせる。 貧困の世代間連鎖、孤独感、死と出産。 『乳と卵』に重厚さが増し、再び厭な予感、救いのない円環をぐるぐる回っているような感覚に陥る。 『乳と卵』で感じた女性特有の血の匂いは少しだけ鳴りを潜め、代わりに時間の経過や「老い」が重くのしかかる。 貧困地域に住んでいた親世代の人たちは体も衰え、もともとなかった余裕が損なわれてゆく。 そして、そんな親世代に囲まれ、孤独に生まれて生きてきた彼女たちは将来誰かを愛せるのだろうか、と重たい気分になる。 P.190『「たとえば、言葉って、通じますよね。でも、話しが通じることってじつはなかなかないんです。』 案の定、主人公夏子は「本当に」誰かを愛するという事が難しくなっている。それは、性的なものと愛するということがどう頑張っても結びつかず、アセクシュアル的な傾向をもつ。 P.224『でも、じゃあ、相手のことを本当にわかるって、いったいどういうことなのだ?』 そこで、恋愛を諦め、結婚を諦め、出産を諦める。 しかし、年齢が上がり、ある程度仕事の見通しが立って生活に少しだけ余裕がうまれると自らの孤独に打ちひしがれる。 P.286『わたしから街や人は見えるけども、どこからもわたしは見えないような気がした』 夏子は孤独を感じると、旧い思い出に浸る。どれも暖かくて楽しい良い思い出だが、その全てが、完膚なきまで完璧にみすぼらしく惨めである。 それでも、どんなに惨めでみすぼらしくともこの女性にとっては孤独を癒す大切な思い出なのである。 夏子と対照的に、日本的血縁主義的家族神話に生きた女性が用いられる。 p.347『自分の人生を犠牲にして家を守ってきたという自負と恨みがあるんだと』 男性と男性的社会への痛烈な批判。「なんで女だけが痛いんだ」という叫びは、結婚・出産を経た女性にも等しく孤独を感じさせていることの現れだ。 ここで『乳と卵』を読んだ時のような感覚を思い出し、恐ろしいような、申し訳ないような、おっしゃる通りでおます、とまたぷるぷる震えてしまう。 出産、子育て、女性。 子供を産めるのは女性だけの特権であり、呪い。その特別な権利と痛みは男性には絶対理解できないだろう。 さらに追い討ちをかけるように見せかけの尊敬・理解を示す男性に対して「-知らねえよ」(p.388)と一蹴される。 そうですよね、理解して欲しくもないだろうし、理解してますオーラを出されるの嫌悪、また嫌悪ですよね、これは本当に申し訳なく頭が下がる一方で、下がり続ける頭の先をぷるぷるさせて井戸でも掘って冷たい水を飲んで頂ければご機嫌少しは戻られるでしょうか、いやそんな水くらいでご機嫌とろうという浅はかさこそ愚かなオトコという生き物でして頭で井戸なんてほれませんし、僕ったら本当に申し訳ござりません、とぷるぷるが止まらない。 物語が終盤に差し掛かると、より孤独感を感じるようになる。 誰もがどうやら等しく有しているとされる子供を持つという能力。「自分の子供」という存在に会いたい。この痛切な願いを責めることは誰にもできない。 しかし、そこで反出生主義の女性と出会う事になる。 生まれてきたばっかりに、生まれてこなければよかった、どうしてわたしを生んだのか。 こうした怒りや哀しさは、この本の登場人物たちにとっては当然の感情でもある。むしろ、主人公夏子、巻子、そして緑子も反出生主義に与しても不思議ではない。 それでも、夏子には巻子がいて、緑子がいた。そして思い出の中には母がいて、コミばぁがいて、九ちゃんもいた。完璧にみすぼらしく惨めだが暖かい思い出があった。 夏子にとって、思い出の中の人たちにもう一度会いたいという願いこそ、自分の子供に会いたいという願いの起源だったのではないか。それが、この物語の最後のページの言葉に現れたのではないか。 最後のページでまた再び、ぷるぷる震える。

6日前

Icon user placeholder6cb5df69 ceea 4233 aaae 413922b5218c5c50f524 f6b7 412a b19b e458d59db9fdIcon user placeholder57d9fb16 4562 4be2 808a 4eff17e7422796f02de3 0437 436a a3dd 3957e39e5c12D1cd8f9e 706f 4f28 9e0d 97137f8f558c 9
カラフル

思春期の物語だった。 この時期にはなんでもできるという万能感と、そこに立ちはだかる社会の不条理が立ちはだかる。 そんな中で普通の人生は嫌だ、なにか特別な人生にしたい。そんなファンタジーに浸る。 そして特に平凡さや普通さを憎らしく思う。 普通っぽい毎日は白黒で味気ないものに映る。 しかし平凡とか普通なるものが最も難しく、そして尊いものであるという事に気付いてゆく。 自分を理解し、他人を理解し、健全な野心と安心感を作りあげる。 ここへ至って白黒だった毎日がカラフルな、みずみずしく生き生きとしてくる。 この物語は思春期心性の物語だった。 しかし、こういう体験をしないと豊になれないというのは本当に、『この世は疲れる。』(p.156)

13日前

56ef3346 c550 48a9 9928 ccf910b9825152cf9eda ffcd 4a67 b5ca 30db065a161d43817637 4803 4a4d 988f 18075934cfa8A209443d 9caa 4ef1 a492 e750cfcdc656Icon user placeholder927c5efd 7a13 46f6 927b 8041cbb0771849448683 e6cb 4bea 841b 0883d9480cf9 326
乳と卵

生々しく、痛々しく、少し血生臭い匂いがしつつも同時に瑞々しい女性性の物語。 巻子の豊胸手術、取り留めのない多弁さ、咳止め薬(ブロン?)依存、ダブルバインデッドなコミュニケーション、母子家庭、大阪。 その巻子の娘である緑子の緘黙、初潮、ナプキン、母親への同一化拒否、空虚感、見捨てられ不安・・・ これら全てが嫌な予感しかしない。 この物語に漂う女性特有の血の匂いに耐えられない男性も多いかもしれない。 この嫌な予感と漂う血の匂いに臆病な男性である私はなんだか怖いような目が回る感じがしてぷるぷる震えながら読んでいた。 思春期特有である(かどうかはわからないけども)どこか身体の成長とこころが足並みを揃えられていない感覚、特に身近な同性である親に同一化を見いだせない場合はより強く、身体という器とこころが別のように感じるのだろう。 それが、この作品の卵だったのかもしれない。 白くて丸みを帯びている様は女性性を現しているようにも見え、殻の中にはどろどろした本体が入っている。 そして卵を有していて産めるのもまた女性だけの特権であり枷、呪いなのかもしれない。 終盤、緑子は大きな声で泣きながら、パックのたまごを自分のからだにぶつけ、どろどろしながら巻子を責める。 巻子も同じように卵を自分にぶつけて応える。 このシーンこそ、緑子が自分の殻を破って緘黙という身体から解放されたことであって、巻子にとっては実の娘に痛めつけられるような出産の追体験だったのではないか。 人は生まれた時、どろどろしている(らしい)し、大きな声で泣く(らしい)。 思春期を迎えてこの母子は再び生まれて子となり、親になったのかもしれない。 この体験で母子は救われたのかもしれない・・。 こんな事を考えると涙がでそうになり、またぷるぷる震えてしまった。

16日前

Ac175e93 27ca 4cda 822b e41d829b5f1eF592a238 51eb 4b1a a39a 41e5624f1ff9Icon user placeholder340d0e7d 6228 472f bea0 b932de23bc4eF1ea2c73 e179 442b b27d bcfe29183e51F9ed6367 e960 4960 9836 90617222a3a03ef80c12 d699 4f71 936c 83e0da095c3a 20
箱男

箱をかぶって生活する。 社会生活に参加せず、箱の中で生活をする。 いや、箱とともに生活すると言うべきか。 箱男にとって箱はどんな価値を持っていたのか。 衣服とも異なる。衣服は見る・見られると言う相互作用・間主観が生じるものの、箱の場合見るという機能は箱男に与えられ、他者は見られることのみであり見る事は与えられない。 これは平岡解説の言う視点の交換、偽物と本物が入れ替わると言う価値の変化とも言えるかも知れない。 そしてどうやら箱に入ると安心するようでもある。 「すべての光景から棘が抜け落ち、すべすべと丸く見える。(中略)この方が自然で、気も楽だ。」(P.21 ) 箱は安心感の器、自分と他者・世界を隔ててくれる枠としての役割になるのかもしれない。 箱と共に生活する箱男、そして箱の持つ機能・役割を考えると、「ひきこもり」という現象を想起させる。 箱の中に避難し、自身の安全を確認する。多くの人は、毎回安心感がある場所に退避せずとも安心感は恒常性を保って外出したり、他者と交流したり、いわゆる社会生活を行う。 しかし箱男は箱から出ることをしない。ライナスのようにブランケットを握り締めるよりもより強固な、安心感が保てるバリアがなければ自分を保つ事ができない。 これはまさにひきこもりと同様の状態ではないか。 「さなぎ」という言葉で箱男の心理が描写されるように、ひきこもりの心理もさなぎと例えられる事が多い。 さなぎは撤退するためではなく羽化するための変態であって、ひきこもりもその人にとっての助走期間、人生の夏休みといえるのかもしれない。 箱男も、若い看護婦と接した事でこの安心感の枠が揺さぶられる事になる。 それは交流とも言えないほど低次元であり、おそらく箱男の妄想的知覚が主ではあると思うけれども彼の世界が大きく揺さぶられる事となった。 やがて箱を捨てられるかもしれないという淡い期待がよぎる。 『彼女との出会いで、もしやその機会をつかめたのかと、密かに期待していたのに・・』(P.64) 箱男は看護婦に対して自分を無条件に助け出してくれて心的にも性的にも受け入れてくれると期待したのかもしれない。 『小型精密機械』(P.122)のように言う事を聞いてくれる、望みを叶えてくれると信じたのだろうけども、病院の窓を覗きみたところで混乱が起きる。 (偽?)医者と看護婦との親密(?)なやりとりを見た途端、医者を贋医者と評価し、贋箱男と認識する。 おそらく、本当は自分(箱男)こそが看護婦を獲得するべきなのに立ちはだかった医者へ投影同一視が起きたのだろうとも考えられる。 これ以降は場面が目まぐるしくかわり、関係念慮、妄想的知覚にエピソード、いわば支離滅裂な病理的な次元へ降りてゆく。 どこで箱男を救えただろうか、などと考えるのは手前勝手ではある。しかし、少なくとも贋箱男と知覚した段階で何かできたのであれば、この後の物語もかわったのかもしれない。 そして、実際のひきこもりも同じようにどこかのタイミングで何かできたのではないか、という局面があったのかもしれない。 それでも、『全国各地にはかなりの数の箱男が身をひそめているらしい痕跡がある。そのくせどこかで箱男が話題にされたという話はまだ聞いたこともない。』(pp.14-15)のである。 (間違っても無理矢理部屋から引き摺り出すのは悪影響しか残さない事をお忘れなく。)

18日前

93767bec f45d 44fd b1a9 e4478e084284Icon user placeholderIcon user placeholder002afacd 03e0 43cb b351 f3a04e318b710970f3da 8bc1 4a63 b77a adf191cda81a04917766 8fce 4394 8236 d2766d77836c5cef2405 2710 4cb7 89d6 a4e067fea66d 39
恋文の技術

なんとなくのんびりして鬱屈した感じの大学院生が能登の地から京都の学友・悪友へ向けて『文通武者修行』と称して約半年に渡って送り続けた手紙の全貌がこの物語である。 手紙にはどうしても出来事と出来事の間にタイムラグが生じるものにも関わらず、何故か生き生きとした物語として楽しく読めてしまうから不思議な体験。 どこか自尊心が歪んだ感じの主人公だが、その割には友人に恵まれていて羨ましくもある。 妹にも手紙に付き合って貰えているんだから感謝しろ、といった返信が送られてくる有様である。 愚兄賢妹とはよく?言われるけれどもこの主人公守田一郎の妹もまた例に漏れずよくできた妹。 『知的好奇心の全貌がつかめない』と言わしめるだけある妹。 その他にもオモチロオカチイ友人・先輩たちのキャラクターもあって物語に引き込まれてしまう。 そして手紙という長さ・分脈やタイミングが制限されるにも関わらず、能登や京都の描写、キャラクター達の個性、そして一連の物語にあっという間に巻き込まれてしまう体験が心地よい。

24日前

Icon user placeholder50f87335 75ce 4511 84c5 4032eb14a50175427b58 3ff0 4cf6 bf64 ff9bbfba28e9895d964e 5ece 4587 9f42 abc406bf93a4Cc6fcec3 d1dd 4fb7 97dc 155aaca949c13ccecb3c 025e 4bd0 8ea3 9fa2ff1ba2f0111025f1 6f12 4cdc 950c 64d9c2e917c3 256
火星に住むつもりかい?

積極的な密告を奨励する制度、全く無実であっても「自白」が得られれば公開処刑される近未来という設定は、日本の伝統いやもとい、ディストピアに他ならない。 公開処刑は、群衆と同一化する事でカタルシスを得ようとする病的な自他境界の曖昧さへ導く。 まるでハロウィンやらサッカーやら年末だかになぜかわざわざ遠方から電車を乗り継いで渋谷で群れる人たちがいるように、狂乱は心地よい変性意識状態に導くのかもしれない。 物語の設定としてはSF的荒唐無稽さもある。執行するのがなんで法務省ではなく警察なのか、根拠法はどう成立したのかなどなど、描かれる仙台の街並と登場人物たちの心理描写がリアルなために逆に突っ込みを入れたくなる。 しかし、伊坂幸太郎的世界では暗殺者が妻の尻に敷かれてボルダリングジムで友だち作ったり、新幹線で銃撃戦が起きたりするから世論がそうなっても不思議ではないのかもしれない。 とは言え、現実はどうか。 幸い安全警察も特高もいないが、テレビで「容疑者が逮捕された」となれば、「いつかやると思ってました」的同級生と「そんな人とは思いませんでした」的近所の人が代わる代わる現れ、ネットに個人情報がばら撒かれる。 まだ容疑がかけられている段階であっても、こいつは巨悪だと感じさせる。 そしてこの物語と同じく、「あぁ危険人物がいなくなってよかったね(まぁ自分には関係ないけど)」とか思っている。 この物語の登場人物。 ある会社でリストラをさせる部署で働き、全く共感のかけらもない人物が密告によって突然捕まり、自白させられて処刑された時、好き好んで拷問する刑事たちが血を流し、絶命した時、「ざまみろ」と思っている。 こうした「悪いヤツ」が傷付き破滅してスカッとした時、なんだ、公開処刑観に行くのってこんな感じかな、なんて思ってしまう。 気付けば、群衆側にいる恐ろしさを感じる。 そこで、『人間が人間らしく振る舞えるのは、群れていない時だけだ。』(P.450)という言葉にギョッとする。 しかし、人間らしさは、残酷さか、善良さか。 この物語において「善良さ」は「お人好し」とか「偽善」と言う言葉をもって容赦なく、ずんだシェイクの枝豆よりも細かく粉砕されてそれがもともと善良さだったのかずんだだったのかわからない状態になる。 『火星で住むつもりかい?』と言うけども、結局火星に行ったところで我々人間は移住組と火星生まれ組で集団作って排斥しあったり、ホバーカー的な浮かぶクルマで煽り運転して捕まった残念でイタイ奴のモノマネとかして遊ぶんだろうな、と感じる。 とはいえ、どこにいっても同じだからこそ人間らしく考え、行動する事が重要じゃないかとも思う。 振り子は振れるけども振り幅は抑えられるはず、と願いたい。

25日前

5f14cdd5 64d7 4d4e 9861 4bf89921793fIcon user placeholder2af949e2 ba82 4727 ac32 bf9af12ccb9075e05375 99d6 43a8 9717 6f92deb748ac86ea1743 f03e 4260 b00c 241dbc6cbcc2C1328c50 7403 4c06 af9f dccee519f9e4Icon user placeholder 164
ベルリンは晴れているか

1940年代ベルリン。 まるで本当に体験したかのような生々しい描写が恐ろしい。 ベルリンという都市が見せた三つの顔。 戦前、即ちベル・エポック期。 WWI敗戦後、夏の終わりに間違ってうっかり出てきてしまったゴキブリの如く、スリッパの裏で完膚無きまでに叩き落とされ、こき下ろされたゲルマン民族の自尊心。 それを忘れようと煌びやかに飾り立てた豊かな文化を誇ったコスモポリタニズム的大都市ベルリン。 幻想的思想、いや、独りよがりで自慰的な夢想を基に再構築された砂上の楼閣、”世界首都ゲルマニア”としてのベルリン。 プレスの効いた制服を着たSSやヴェールマハトがいなくなり、代わりにヤンキーと赤農軍(あとモンゴメリ将軍とチャーチルと国王に忠誠を誓った軍)たちに占領され、廃墟と化し、人間の生き残りたいという渇望と生き残ってしまった罪悪感、そして文字通り”動物たち”が解き放たれた『神々の黄昏』としての、統合を喪い分裂したベルリン。 一つの都市が三つの様相を見せる。 かつて、最も先進的な憲法を有していたヴァイマール共和政の中間層市民たちは、世界恐慌の後拡大するプロレタリア階級と貴族(ブルジョアジー)の狭間に立たされて、不安と疎外感に陥った。 その不安と疎外感は失ったゲルマン民族の誇りに置き換えられ、国家社会主義や歪められた超人思想への傾倒を促した。 この作品でも主人公の親はドイツ共産党の支持者であり、孤児となった後彼女を匿ったのはブルジョアジーであった。 そして冷徹な目で周囲を観察し、不条理への憤りを抑圧し、葛藤が形成されている。 その葛藤はやがて攻撃性を刺激する。 その葛藤は『全て戦争のせい』だったのだろうか。 この主人公たちの戦争は終わったのか。 『戦争は終わった。世界は美しい。』(p.186)と言うが、この恐るべき暴力の時代と人の尊厳がタバコの紫煙ほどしか薄かった世代に美しい世界は本当に訪れたのか、『ベルリンは晴れているか』? 『この国は、もうずいぶん前から、沈没しかけの船だったんだ。どこがまずかったのか、どこから終わりがはじまってたのか、最初の穴を探し回っても、誰もはっきり答えられない。全部が切れ目なく繋がっているからさ。 だけど俺たちは意気揚々とーあるいはおっかなびっくりで船に乗り込み、自信満々で新しい国旗を翻させる船員たちに櫂をまかせた。』(P.459) この描写は恐ろしい。我々にこの自覚があるだろうか。 しかし、残念ながら物語として面白かったか、というと満足しきれない。 もう少し、ほんのもう少しだけ物語が生き生きとしていれば、ベルリンは晴れただろう。

28日前

F1907be0 ddbd 495c 9da3 153c2f7b0d078817d9d2 f670 4857 8844 aad4222e18feIcon user placeholder7ace1e7d d5c0 4e09 9f65 1a206cd69d83Abb94028 9212 4607 aea4 ad17dfdbc81e71c3c4d6 9ff9 4bfb 8dd0 de3109c9422a531459ff 570c 4dec b1f6 bc840f7e5c82 52
熱帯

合わせ鏡のような物語。 読み進めていく中でいま体験している物語はどの世界で進んでいたのか、いまの登場人物はどの次元での存在なのか、と不思議になってくる。 この物語のはじまりは不明瞭で到達点も曖昧。 だからこそ『この物語を最後まで読んだ人はいない』という台詞が活きてくる。 はじまりと終わりが不明瞭で不思議な物語でいうと円城塔『self-reference engine』を想起するけども、『熱帯』に大きな「イベント」は発生しない。 どこかふわふわとした白昼夢が継続する分、砂浜の地面から海水が湧き出してくるような不思議さに支配される。

約1か月前

E3d8a6bd b33a 40ed 9024 336e14e0a59d55726567 d82a 4e2a 8834 03827f5e77245ed9d885 1800 4df1 bd38 72be7f43f53b8817d9d2 f670 4857 8844 aad4222e18fe22461bf2 dedd 4a1a a3b7 eab34b1bc5f142a79741 e586 420f a17a db0551af35f573c8ae9c 8ef7 422c bfd2 2b60ffb83742 191
終末のフール

心地よい終末、穏やかな絶滅、緩やかな破滅、暖かい終焉、優しい破局。 それがこの物語体験だった。 解説でもキューブラー・ロスの「死の受容」の段階が記されていた通り、この作品は否認、怒り、取引、抑うつの段階を経て受容の段階にある人々が残りの日々を過ごす。 一つ一つの物語に派手なところはなく、終始心地よく、穏やかで、緩やかで、暖かく、優しいエピソードに包まれている。 それでも時折、あと3年程で間違いなくこの世界が終わり、自分たちの命も尽きる『最後の時』(p.369)が来るという決定済みの未来が覗いてくる。 その時、主人公たちよりむしろ、読んでいるこちらが恐ろしい気分になり、次のページで「世界の終わりはとんでもない誤報でした」とか「最新の観測によれば世界は終わらない事が確認されました」的な発表がされないかと願う。 その時、あぁ、主人公たちと違って物語を読んでいるこちらはまだ受容の段階に達していないんだ・・と洞察に至る。いや、愕然とする。 死の受容は必ずしも一方通行に進む訳ではなく、時に前段階へ戻ることもある。 この物語はディストピアものであり、終末ものではあるが、ゾンビも銃も出てこない。悲愴感もない。 しかし恐ろしく、心地よい気持ちになる。 その他 『『東京物語』と『帝都物語』って一貫性があるのかないのか、』(p.348)

約1か月前

49448683 e6cb 4bea 841b 0883d9480cf9F674af17 8d19 40cc a240 e524afbbc2fcIcon user placeholder8cfbd4c3 9206 47ae 965f 95f4dcfdda647ace1e7d d5c0 4e09 9f65 1a206cd69d834758aa1a 9752 43c7 9acd 3d207cab7bd3Icon user placeholder 132
砂の女

ー罰がなければ、逃げる楽しみもない。 この小説は、自由で、開かれた、近代的な価値観を持つ都会から来た教師(インテリ)が、砂に閉じ込められた集落へ捕らわれ、だんだんと無感覚になっていく様が描かれている。 本来であれば、教師という個性が、「砂かき」なる没個性的な労働・存在になれるはずはない。しかし、集落から「女・水・食料・酒・タバコ」という生活必需品を与えられた主人公は徐々に没個性的存在へと変身していく。 おそらく、この作品が書かれた当時は日本の地方・集落(部落)に野卑さが残されていたこと、そこに文明をもたらすインテリゲンチャとその欺瞞云々といった時代背景があったこととは思う。 しかし、20世紀を経て21世紀へ至った現在の我々はどうだろう。 現在でも我々(都市生活者)は毎日満員電車に自分自身を詰め込み、職場へ向かう。しかし、労働に悦びはなく、苦行でしかない(人が多い)。 この状況は砂に囚われた集落と同じではないか。 「個性を大切にしましょう」なんて言われて育ってきた私らのような世代が「社会人として」なる蟻地獄に囚われ徐々に没個性化し、都市という煉獄に生きていることとなんらかわりなく、『「ぼくには、もっと。ましなことが出来るはずだ・・・」』(p.171)と自己愛を傷つけ続けているのではないか。 不条理とは共感の不足、または欠如であるかもしれない。 『お前は鏡の向こうの、自分を主役にした、お前だけの物語に閉じこもる・・・俺だけが、鏡のこちらで、精神の性病を患いながら、取り残されるのだ・・・』(p.151) 『「かまいやしないじゃないですか、そんな、他人のことなんかどうだって!」』(p.246) 共感の欠如はやがて人間の生き方、感じ方も変わってしまう。主人公は砂と砂の集落に囚われ、砂掻きをしながら同僚に誘われていった講演会を思い出す。『「労働を超える道は、労働を通じて以外にありません。労働自体に価値があるのではなく、労働によって、労働を乗り越える・・・その自己否定のエネルギーこそ、真の労働の価値なのです』」(p.177)そして、抽水装置という『なぐさみもの』の研究開発にも熱中するようになる。 共感が欠如し、周囲で起きていることに関心を払わず、もっぱら生活への適応にのみ神経を注いでゆく。 そして、人は孤独になっていく。『孤独とは、幻を求めて満たされない、乾きのことなのである。』(p.236) 読んでいて考えが膨らんでしまう、小説・物語を読むという体験をしつつ同時に、いろいろさまざま考えが膨らんでしまう。『「日本、いや世界の真相を最も小説的な方法によって書いている』(解説 ドナルド・キーン p.276) その他 『人間にはめいめい、他人には通用しない理屈ってのを持っている・・しかし僕には絶対我慢できないね。もう沢山だ!』(p.76) 『仮に、義務って奴が人生のパスポートだとしても、なぜこんな連中からまで査証を受けなきゃならないんだ!ー・・・人生はそんな、ばらばらな紙切れなんかではないはずだ・・・ちゃんと綴じられた一冊の日記帳なのだ・・・』(p.142)

約1か月前

9f07f1ed fea7 4553 b8ca d8123b7dc4fb8fccfba6 78fc 477f a546 a3125957caa10d0a9844 b717 4e59 a9d7 bbd0cb57162eD4f18294 9b30 4b69 a107 729835106ec9Icon user placeholderE8319e75 d2bd 4c56 994c c52b8e12988a87e8647a 780f 41d5 bb00 a173e48af28c 160